宗教多元性

宗教的排他主義

キリスト教カトリックでは、ローマ帝国の国教となって後長らく『教会の外に救いなし』というドグマが掲げられており、キリスト教カトリック以外のすべての宗教はキリスト教とは異質で無価値なものであるという信念が支配していた。カトリックから分離したプロテスタントは『キリスト教の外に救いなし』とこの文言を修正したが、やはりキリスト教以外の宗教に価値を認めないという点では同じであった。しかし非キリスト教圏に赴いた人々の中には、一定程度包括主義的な見方を示す人々も居た。 旧約聖書・新約聖書では「偶像崇拝は悪」と明記されているために、必然と仏教や神道とは対立する。

宗教的包括主義

宗教的包括主義(Religious inclusivism)とは、他の宗教の存在を認め、その教えに一定の価値があることを承認するものの、究極的な自宗教の優越性への信念は放棄しない思想である。この場合他の宗教は自宗教の理想を一段劣った形で伝えるものとみなされる。
宗教的包括主義は、他宗教を表立って攻撃せず、その教えに一定の価値があることを承認し、尊重するという点で宗教的排他主義とは異なる。しかし、自宗教の絶対的優越性への信念を放棄しない点で宗教多元主義とも異なる。

キリスト教では、一般にプロテスタントは宗教的包括主義を認めない。しかし、ローマ・カトリック教会が公布した公式な教理文書『カトリック教会のカテキズム』は、ムスリムについて次のように記述している。

カトリック教会のカテキズム:教会とイスラム教徒との関係
救済計画には創造主を受け入れた人々も含まれており、ムスリムはその筆頭である。彼らはアブラハムへの信仰を明言しており、我々と同じく、あがめるのは慈悲深いただ一人の神、最後の審判の日に人類を裁く方である。

イスラームでは、啓典の民という呼称などに見られるように早くから一定程度包括主義的な姿勢を他宗教に対して見せており、そのため前近代において他宗教の信者は差別と抑圧の元ではあるものの、共存を許されていた。また宗教多元主義に近いレベルで他宗教への寛容性を説いた思想家、スーフィー達も少なくなかった。

クルアーン2(雌牛):62
本当に(クルアーンを)信じる者、ユダヤ教徒、キリスト教徒とサービア教徒で、アッラーと最後の(審判の)日とを信じて、善行に勤しむ者は、かれらの主の御許で、報奨を授かるであろう。かれらには、恐れもなく憂いもないであろう。

また、日蓮宗国柱会の創設者である田中智學は、「キリストは梵天の仲間であり、釈尊の霊鷲山での法華経の説法に梵天も拝聴してるので、キリストも法華経を知ってるはずだ」との趣旨を述べ、キリスト教の教えにもブッダの教えが組み込まれうることを示している。

ジョン・ヒックの説いた宗教多元性

宗教多元性とは、諸宗教は、宗教的な「実在」に対する異なる仕方での応答の形であるとみなし、それぞれの宗教の信者がその信仰の枠組みの中において救済に預かっているとする説である。
ジョン・ヒック(John Hick)はキリスト教徒の哲学者で、宗教多元論の主唱者として最もよく知られている。もともとは伝統的な福音主義者であったが、文化的・宗教的な多様性が現に存在しているという事実を、神の愛と一致させる問題を考えることを通じて、次第に多元論へと向かっていった。彼の説いた宗教多元論は多くのものに影響を与えている。

キリスト教以外の信仰者は死後どうなるのか

もし、キリスト教が伝統的に教えられてきたように、キリストへの信仰を唯一の救済の手段とするならば、そもそも福音や永遠の罰について何も聞いたことのない人々は神によって捨て去られ、永遠の破滅へと向かうことになる。これはセオドア・ドレンジによる「不信仰からの論証」の背後にある考えであり、ヒックが宗教多元論へと移行していったことの背景となっている考えでもある。宗教的信仰とは、大部分において文化の産物であるように見える。世界の圧倒的多数の人々は、自分で自らの信仰を選んだとは言い難く、その多くは生まれた地域や時代、またその家族の信仰を受け継いでいる。そうした人々は、キリスト教の福音なるものを受け入れる素地を持たない。しかし、伝統的、福音主義的、排他主義的なキリスト教の信仰によれば、そうした人たちでさえ、罪のうちに死ぬことが確実なのであり、また、多くの(全てではない)キリスト教の教派の主張によれば、彼らは厳しく非難され、救いを受けることができないとされている。ヒックはこのことがキリスト教の神の愛についての教えと相容れないのではないかと考えた。ヒックの見解によれば、現に他の宗教が存在しているのだから、福音主義的なキリスト教の教えは不整合に陥っているのである。
ヒックはまた包括主義をも否定する。これは他宗教をキリスト教の亜種もしくは変形としてとらえるものであり、キリスト教優越主義というドグマを脱したものではないと主張する。
ヒックへの、あるいは宗教多元論への批判者は、たいてい、福音について聞いたことのない人々がいることを否定するか、これら無知な不信仰者は地獄に落ちるということを否定するかのどちらかである。さらには、この地獄行きの永遠の断罪は神の愛とは相容れないということを否定する人々もいる。

諸宗教は「真実在」への応答…キリスト教の優越性を否定

ヒックのこの問題に対する答えは、宗教的な真理というものを、文化および個々の人間に対して相対的なものとして見るというものである。彼はキリスト教の排他主義を間違ったものとして退ける。その一方で、他の様々な宗教を、それぞれがその文化や伝統などに基づいた形での、「真実在」への適切な応答だとみなすのである。これはキリスト教を含めた一神教に強いとされる『万民のための神』という思想に、多神教に強いとされる『神の多元性』という考え方を組み合わせたものともいえ、諸宗教の根幹精神における一致と現実の形態の多様性を共に承認し、共存の柱とするものである。
ヒックは三位一体を拒絶し、イエスは神の霊に満たされ、愛と慈悲に満ち溢れた偉大な預言者であり、キリスト教徒の指針であるが神そのものではなく人間であるとしている。これは『キリスト教が受肉した神自身により打ち立てられた』という信仰が、レイシズム、植民地支配、キリスト教優越主義など歴史上多くの罪悪を正当化してきたという批判が前提となっている。神の受肉という教義は、あくまでもメタファー(比喩)として考えるべきであるというのが彼の考えである。

「生まれ変わり」について

ヒックは論文「位格の復活」 ("Resurrection of the Person") の中で、死後の生に関しての理論を提示している。この論文で彼は、突然死してどこか他の場所でその人の「生まれ変わり」として「生まれ変わった」人はもとの人と同じ人物である、と説明するのがもっとも合理的だと主張した。それゆえ彼によれば、人が(神によって新しい世界へと「生まれ変わらされる」という仕方で)同一性を保ちながら、異なる世界に存在することが論理的に可能なのである。ただしそれは、何らかの異なる形式においてであろうが。

その他の宗教多元性

仏教の言説ではあるが、神経症の治療法である「森田療法」の創始者である森田正馬は、1922年に発行された『神経質の本態と療法』の中で以下のように書いている。

自然科学から見れば、神は民族心理の過渡的産物である、とかいうように、神という実体の存在はない。神、仏、真如とかいうものは、宇宙の真理、すなわち「自然の法則」であって、法そのものにほかならない。
真の宗教は、自己の欲望を充たそうとする対象ではない。神を信じるのは、病を治す手段でもなければ、安心立命を得る目的としてもいけない。神仏に帰命頂来するということは、自然の法則に帰依、服従するということである。

最終更新:2018年01月27日 19:23
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