キリスト教

当サイトはすべてがキリスト教の研究・解説を目的としているが、ここでは敢えてキリスト教とは何かについて簡潔に示す。

キリスト教の定義

キリスト教には大きく分けてカトリックプロテスタント正教会など多くの教派が存在するが、いわゆる正統派と異端(キリスト教として認められないもの)があり、ここでは正統派である最低限の条件を示す。

1.三位一体の神を崇拝すること

キリスト教では、三位一体の神として、「父なる神」「子なるキリスト」「聖霊」を崇拝する。大きな特徴は、「父なる神」と「子なるキリスト」と「聖霊」は互いに異なる存在である者の、「父なる神」と「子なるキリスト」と「聖霊」はいずれも唯一神の異なる位格(ペルソナ)であるということである。
これは同時に、イエスが「神の子」であり「メシア」であることを信じることでもある。

2.イエスの十字架上の死により原罪が償われたと信じること

イエスはローマ帝国により磔刑に処されたが、これは神が人類を救う計画であり、汚れ無き存在である神の子イエスを生贄として捧げることで、イエスが人類の罪を代わりに償ったと考える。これはイザヤ書53章で、主のしもべについて「彼の受けた傷によって、私たちはいやされた」とあることがその根拠である。

3.イエスの復活を信じること

イエスは十字架の上で亡くなったが、3日後になり復活した。これは霊的な復活だけでなく、肉体も伴った復活であるというのが正統派の見解である。

4.聖書以外の啓示を認めないこと

キリスト教では、イエスの時代にはすでに成立していた旧約聖書と、イエスやその弟子たちについてまとめた新約聖書の二つの聖典のみを用いており、これらが唯一の普遍的啓示であると考えられている。したがって、聖書以外の啓典や啓示を用いる場合にはキリスト教とは見なされない。(ただし私的啓示に関しては必ずしも認められないわけではない。)

イエスの教え


律法の内面化

イエスは形式主義的な人々に対して、実質的に律法を理解して、信仰に生かすよう求めた。この一例が、安息日の労働である。「安息日に働いてはならない」という形式主義を押し付けるファリサイ派に対し、イエスは「安息日は人のためにある」と批判を交わし、安息日に労働する農夫をかばっている。

神の無償の愛 アガペー

神が人間を無償において、限りなく愛していることは、イエスが弟子たちや人々に述べ伝えている。
山上の垂訓においても、「敵を愛せ」という教えで、「神は、善なる者にも、悪なる者にも、変わることなく、太陽の光の恵みを与えてくださる」というように、人間をその行為や社会的地位や身分や性別などによって区別せず、恵みを与えてくれる存在として宣明されている。またイエスは、知人や友人、家族などを愛するだけでは十分ではない。そういうことは異邦人や取税人もしている。わたしの教えに従う者は、みずからの「敵」さえも愛さねばならないとして、単なる「隣人愛」以上の普遍的な人間愛を語っており、このような愛を通じて、「神の子」となりえるのであるとしている。
これらのことは、放蕩息子良きサマリア人のたとえ話の中でも示唆されている。

ここでイエスが述べている「愛する」という言葉は、ギリシャ語原文では αγαπειν という動詞であり、この動詞の名詞形が「アガペー」である。イエスはアラム語で話していたと考えられているため、イエス本人がアガペーという単語を用いたわけではないが、福音記者は「愛」と訳せる4つのギリシャ語の単語(エロース (ερως、性愛) 、フィリア (φιλια、隣人愛) 、アガペー (αγαπη、自己犠牲的な愛) 、ストルゲー (στοργή、家族愛) )の中から「アガペー」を選択したのである。

このように、何の見返りを求めない無差別・無償の愛があることをイエスは述べ伝え、この愛のもとに人間はみな平等だと言った。

イエスの黄金律

マタイ7:12やルカ6:31には「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という教えがある。このような「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」という内容の倫理学的言明は、多くの宗教、道徳や哲学で見出されるが、ユダヤ教やイスラム教、ヒンドゥー教や孔子の『論語』においては、いずれも「人にしてもらいたくないことは、人にしてはならない」という内容である。そのため、現代の欧米において「黄金律」という時、一般にイエス・キリストの「為せ」という能動的なルールを指すことが多い。



最終更新:2020年10月10日 08:01