フィルモア=インティ戦争

概略

フィルモア=インティ戦争または東西戦争とは、7514年-7518年にかけてフィルモア合衆国インティ帝国と間で行われた戦争である。
Fillmore Inti War
フィルモア=インティ戦争
画像
時期:7514年6月24日-7518年11月14日
場所:カナロア・北グラニツァ及び周辺海域
結果:インティ帝国側の勝利、帝国の独立が確定
交戦勢力
フィルモア合衆国 インティ帝国(第二帝政)
諸先住民族系義勇軍
支援勢力
立憲王政アーカルソン=リペルニア
リントヴルム朝ヤード帝国
指揮官
ダニエル・サントス大統領: サパ・インティ:アマンカイ・クイリュル
陸軍将軍:ワンタール・パチャ
海軍将軍:オリャンタ・ウアシ
グワカ・スーユ・クラカ:
メトル・スーユ・クラカ:
ティレ・スーユ・クラカ:
チレ・スーユ・クラカ:
戦力
合衆国軍:13万人 インティ帝国:9万人
(陸軍:11万人) (陸軍:8万人)
(海軍:2万人) (海軍1万人)
旗艦:一等戦列艦ラ・クレプス 旗艦:一等級戦列艦コン・ティキ・ウィラコチャ号
副旗艦:三等級戦列艦ワリャル・カルウィンチュ号
他:四等級戦列艦4隻/五等級フリゲート23隻で構成
諸先住民族系義勇軍:1万
被害者数
戦死者:
戦傷者:
行方不明者:
戦死者:
戦傷者:
行方不明者:

背景

カノミス王国総督領であった東カナロア、西カナロア、北グラニツァがフィルモア独立戦争によって7504年にフィルモア合衆国として独立した。
しかし、合衆国内の最大の先住民族であるインティ人は、カノミス王国による植民地化以前まではインティ帝国(第一次帝政)として東部諸州及びグラニツァ北部諸州を支配していた歴史があり、植民地化後も隠れてサパ・インティの継承と太陽信仰を続けてきた。
このため、独立戦争時には入植者とインティ人は協力する形を取っていたものの、合衆国建国を理想とする前者とインティ帝国再建を理想とする後者は同床異夢であり、独立戦争終結直後から、立場のすれ違いが生じるのは自明であった。
合衆国からの分離を求めるインティ人に対して合衆国政府と議会は承服せず、逆に先住民居留区の設置を提案してインティ人にも合衆国民の一員となるよう要求した。
合衆国の建国理念は多民族共生社会の構築ではあったが、理念と現実の乖離は著しく、先住民や亜人種族に対する奴隷制度も残っていた。またそもそも植民地時代において過酷労働を強いられたインティ人は、カノミス本国から一定の特権を得て農園を経営し、富を簒奪してきた入植者に対しても、本国人に準ずる敵意を抱いていた。
それに加えて工業的に発展していたカナロア西部諸州に対し、東部諸州とグラニツァ北部諸州は農業中心であり、合衆国独立後も経済的格差が開いていくばかりであった。
10年間の粘り強い交渉もついに決裂し、7514年、東部諸州とグラニツァ北部諸州においてインティ人によって一方的に樹立が宣言されたインティ帝国(第二帝政)とフィルモア合衆国との間に戦端が開かれた。

戦局の経過

フィルモア軍は防備が堅いインティ帝国本土のグラニツァ北部諸州(地図62,63)とカナロア東部諸州(同90~93)を海上封鎖で分断し、海軍によって先に東部諸州を短期間で制圧する計画を立てていた。フィルモア軍は開戦直後に海峡東側を封鎖してメトル・スーユ(92,93)に侵攻した。インティ軍に対して数で勝るフィルモア軍は初戦では優勢に戦闘を進めたが、新大陸の強大化を懸念するヤード帝国とリペルニアの支援によって訓練されていたインティ軍に苦戦するようになり、逆にインティ海軍による海上封鎖を受けてしまう。
フィルモアは事態を打開するため海軍の総力を挙げて封鎖を突破し、インティの首都マンカを占領する作戦を実行する。これにより海峡周辺で多数の海戦が発生し、海上交通が完全に止まってしまった。
国際貿易に支障が出始めたことでヤード、リペルニア両国でも戦争の早期終結を求める声が高まり、影響力を少しでも残したいと考えていたカノミスが仲介することで講和が成立した。

ペール講和条約

カノミス王国首都ペールにおいて締結されたフィルモア合衆国とインティ帝国間の講和条約。
条文の趣旨は、合衆国と帝国の領土画定とフィルモア国内の先住民族、インティ国内のカノミス人の権利を相互に保障すること等。

各国への影響


フィルモア合衆国

インティ帝国の分離独立によってプランテーションの拡大という野望が潰えた合衆国は、先住民自治を認めるなど、ほとんど建前だった多民族共生社会を本気で推し進めるようになる。また、戦争で輸入が途絶えたために北部の製造業が発展し、工業化が加速した。しかし、多民族共生も工業化も主に北部主導の考えであり、農業経済を志向し奴隷を用いたプランテーション農業が中心の南部にとって相いれないものだった。この経済や奴隷に対する意見の食い違いは南北対立の火種になった。

インティ帝国


カノミス王国

「カノミスが自ら犯した罪を乗り越え、カナロアの諸族と手を取り合い、新しい秩序のもとに繁栄する日を私は信じて疑わない」
レオノーラ王母は講和仲介の席に招かれ、わずかながらに残っていた王国の権威と権益をかろうじて保った。その後王国は旧植民地との関係改善に取り組むが、王母はその後数年で病死した。それからカノミスが「列強」の座に返り咲くことはついになかった。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2019年05月25日 22:44