・解説
浮屠教とは
サモン・ゴハンを開祖とする宗教、又はそれに関する哲学思想である。この宗教は紀元前1000年ごろに現
トゥガ国で誕生し、教義も地域や時代によって変化したため宗派も多数存在する。
・歴史
・原始浮屠教
約1万年前に乾燥農業とヤクの牧畜を開始したラ族は自然を観察することにより、因果関係と食物連鎖の理論を発見し、そこから輪廻転生とヴァルナ制を特徴とする多神教を信仰するようになった。
しかし紀元前1000年頃、厳しい階級制と形式化した僧侶階級の儀礼に対して疑問を持つ者たちが現れ、その中の一人であったサモン・ゴハンはヴァルナ制を否定し、苦しみから離れるために中道の行いを心掛け欲望や恐怖といった物事に執着しない状態へとbold(){解脱}を目指すべきと主張、その教えに感銘した者たちが集まり教団を結成した。
・教団の分裂
サモン入滅後、弟子たちは開祖の言葉を体系化して纏め、彼の教えを再検討する作業を開始、後にその内容は長い年月を経て浮屠典として韓文により文字化される様になった。
一方教団内部では教義の解釈を巡り僧侶同士の対立が発生、紀元前700年頃に教団は全生命の救済を優先する悟衆派と大衆救済は修行者の欲であるため、個人の悟りを目指すべきとする悟一派に大きく分裂した。
・便乗浮屠教の誕生
教団分裂後、悟衆派の僧侶たちは各地へ積極的に布教を開始、しかし元々無神論的な思想であった浮屠教の教義は、宗教と生活習慣が一体である古代社会では中々受け入れられなかった。
その為、浮屠教の僧侶たちは他宗教の神を認め、他の神性を如来や菩薩と同じように肉体的呪縛から逃れた高次の存在であるとし、梵我一如がジンテーゼであるならば、菩薩・如来・他宗教の神はそれに通じるテーゼであるとして古代社会でも受け入れやすいよう教義を改良、この教えが便乗浮屠教となった。
・トゥガ国における便乗浮屠教
その後便乗浮屠教は土着の多神教を飲み込みトゥガ国全土へ広まる。トゥガ王国誕生後は国教とされ、
弥大宗・
豪宗・
古々宗等様々な宗派が誕生、各地の地方政権を施主として発展した。特に弥大宗はモスン帝国の国教として多大な援助が与えられ、一時的にトゥガ全土を支配、この時
転生僧侶制が確立された。
モスン帝国衰退後は新宗派
立教大学宗が誕生、同宗派は浮屠教の教えを体系化、
単位制のような制度を生み出し、信徒や僧侶の理解度に合わせた教育・修行を教えることにより、質の良い僧侶を増やして勢力を拡大、清河王朝の支持も得て、名実ともにトゥガ国を支配した。
しかし
7609年に
清河人民社会主義共和国軍が「封建領主に支配された迷信深い哀れな人民を開放する」事を名目にトゥガ国へ侵攻、各地の僧院を破戒し、僧侶と信徒を虐殺し、近代化のため合理的人民の大規模入植を開始した。
その後、ジャーガルクへ逃れていた立教大学宗の転生僧侶
カーマル32世がジャーガルクへ救援を要請、7615にジャーガルクはトゥガ国の半分を制圧し、トゥガの浮屠教は一応命脈を保った。
・トゥガ国外への広がり
・中原における便乗浮屠教
便乗浮屠教は後韓時代に中原へ伝わり、戦乱の絶えなかった六族十二国時代には心の平安を求める人々によって
礼教以上に信仰されるようになった。便乗浮屠教は教義の柔軟性により礼教や中原の諸信仰と習合し、新しい宗派が各地で誕生、シンガにおける哲学の発展に大きく貢献した。しかし
清河人民社会主義共和国成立後、人民の精神革命を名目に各地の寺院は破壊され、僧侶・信徒は精神障害を治療するために教化所へ送られた。
現ジャーガルク・シャー国領に便乗浮屠教が伝わった時期は地域差があるが、現在首都が置かれているゾロタ列島に便乗浮屠教が伝わった時期はカラン朝中頃とされている。その後ジャーガルクを支配したヴォルク人は殺生を否定する便乗浮屠教を臆病な農耕民の信仰として軽蔑し、時に富が集まる寺院を略奪したが、2代クリィ・シャーの時代に信仰が推奨されるようになった。
当時ジャーガルクで信仰されていた宗派は
香徒宗と
空区師渡であり便乗浮屠教の僧侶たちは修業のため
トゥガ国や中原へ行き、ゴマ・茶・菜種を持ち帰って寺院内で栽培し、余ったものを地域住民に販売したため、寺院周辺に貴重な商品を求める商人が集まり、お参りに来た信徒を対象とした店も出店されるようになったため、各地の寺院周辺に
門前町が誕生した。
また、ジャーガルク中央政府の弱体化によって公的教育機関が衰退し、有力者の子弟を教育する場所が無くなったため、一部の者は出家して、また一部の者は僧侶を家庭教師として学問に励むようになった。
第一可汗時代(5886年~6228年)には新しい宗派である
歩詫磨宗・
迫真宗が中原より伝来、さらにジャーガルク独自の宗派として
昏睡宗が誕生し、特に歩詫磨宗は分かりやすい教義により庶民にも広く浸透した。
6228年には昏睡宗の一派である昏睡麗冨宗の僧侶と信徒たちが豪族とシャーを殺害しゾロタ列島を制圧、以後6388年までゾロタ列島は「百姓と僧侶が持ちたる国」となった。しかし彼らの教団は内紛により衰退、大陸で即位したシャーと豪族の連合軍によって撃破された。
モスン帝国時代にはトゥガ国の浮屠教宗派である
立教大学宗が優遇されたが、他宗派が弾圧されるようなことは無く、第二可汗時代には
寺請制度確立により、戸籍に
宗門人別帳が作成され、ジャーガルク人の殆どが便乗浮屠教という事になった。
・悟一派の動向
一方悟一派の中からも「生きること自体が苦である」とするグノーシス思想が生じ、輪廻を物理的に断ち切るため全ての生物は子孫を残すべきではないと主張する「大弁浮屠教」が誕生、教団構成員を「土方」(土の上で働く者という意味)浮浪者(真理に近づき、この世を漂う者)九甦土方(真理に到達しながらも、信徒の救済に尽力する者)と分け「反出生主義」・「自殺推奨」を主張したが、その過激な教えからシンガ諸国で弾圧され、シンガにおいて5000年代頃信徒0人となった。
しかし彼らの思想は円十字教成立に大きな影響を与えたとされ、特に円十字教の「百合」推奨思想は大弁浮屠教由来であり、また「西方の3博士」や「洗礼者」は大便浮屠徒であったとされている。
・現在の主な宗派
宗派名 |
教義 |
主な信徒 |
迫真宗 |
座禅という修業により内観・自省によって心性の本源を悟り、自己分析を行う宗派 |
ジャーガルクの皇族・貴族層 |
空区師渡 |
生きてるときに業をなくして悟る(即身成浮屠)ことを目標とする宗派 |
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香徒宗 |
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歩詫磨宗 |
香徒宗から別れた宗派、歩詫磨如来を信仰し、念浮屠を唱えることを重視する。(専修念浮屠)如来の慈悲により多少悪いことしてもちゃんと反省すれば救われる(悪人正機)と主張している。 |
ジャーガルク (何とか残ってる)清河浮屠教徒 |
昏睡宗 |
香徒宗から別れた宗派、「浮屠教語録」を唱えれることこそ重要とする宗派、他宗派に対して攻撃的 |
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律教大学宗 |
浮屠教の教えを体系化、単位制のような制度を生み出し、信徒や僧侶の理解度に合わせた教育・修行を行う宗派 |
ほぼ全てのラ族 |
最終更新:2020年05月14日 16:37