アキピテリア戦争

アキピテリア戦争は7610年8月15日から翌7611年6月8日まで行われたレオネッサ王国によるアキピテリア王国の侵略戦争。この戦争によりレオネッサ王国はアキピテリア王国全域を支配した。

アキピテリア戦争
画像
時期:7610年8月15日-7611年6月8日
場所
ヅィエラバンド(アキピテリア王国)
結果:レオネッサ王国によるアキピテリア王国の併合
交戦勢力
レオネッサ王国
アキピテリア王国
指揮官
ヴィットーリオ・ヴェネト2世
ドゥーチェ
エミリア・デ・ボーノ
ブテール・アッキピテリ国王



戦力
レオネッサ王国領東タヴェリア駐留軍
238.000人
アキピテリア王国軍
正規軍:30.000
民兵:100.000
ソフィア人軍事顧問:30人
被害者数
868.000

背景

 プロヴィンス番号52番に位置するアキピテリア王国は、剣呑なヅィエラバンドの山岳地帯が国土の殆どを占め、そこに住む有翼亜人はその身体的特徴を生かして狩猟採集によって生活していた。山の自然の他に特に資源のないアキピテリア王国では、古くからクラリッサ帝国(ソフィア王国)等に有翼亜人を傭兵として輸出してきたが、有翼亜人の傭兵需要が無くなると、アキピテリア王国はつながりの深いソフィア王国とささやかな交易を維持しつつ独立を維持してきた。レオネッサ王国はタヴェリアでの植民地を拡大しており、ヤーディシア大戦ではさらに植民地を膨張させたが、それでもこの山の自然意外に資源のない地域には関心を示さなかった。
 転機が訪れたのは、レオネッサ王国でファシスト政権が発足してからで、ファシスト政権は帝国主義、冒険主義、好戦性を発揮する事を望み、アキピテリア王国への侵略の食指を伸ばしてきた。ファシスト政権は東タヴェリア植民地との国境問題を取り上げ、外交問題化してきた。この紛争はソフィア王国が仲介し、レオネッサ王国に警告を与えるなど、レオネッサ王国の帝国主義には同盟国の強い反発があったが、ファシスト政権はソフィア王国がファシスト政権に軍事力の行使を行わないだろうという確信を得ると、7610年8月15日、レオネッサ王国はアキピテリア王国に宣戦布告し、エミリア・デ・ボーノを将軍とするレオネッサ王国東タヴェリア植民地軍が侵略を開始した。

経過

平原の決戦(6710年の戦い)

 7610年8月15日、レオネッサ王国軍は東側国境より植民地兵を先鋒に一斉に国境を越えた。エミリア・デ・ボーノはレオネッサ王国軍の好戦性を宣伝するべく、敵の降伏を認めず、目につく人間すべてを殺戮する事を宣言した。レオネッサ王国軍は進撃する土地で隈なく皆殺しを実施したため、その進撃は遅々としたものとなっていた。
 国境及び平原地帯でレオネッサ王国軍が殺戮を繰り返している頃、アキピテリア王国軍はソフィア人軍事顧問から山岳地帯でのゲリラ戦を実施するべきであると勧告されたが、アキピテリア王国のブテール国王は国境及び平原地帯の大虐殺の状況を鑑みて、敵を国内奥深く迄誘引する事を良しとせず、13万の総戦力を結集して平原で決戦する事を決心した。
 しかし、アキピテリア王国軍は有翼人種の飛翔能力を頼んで航空機の整備を怠っており、制空権は開戦間もなくレオネッサ王国軍に掌握された。アキピテリア王国軍は敵航空機の偵察活動、爆撃により、部隊の集結どころか移動まで困難な状態であった。このような状況下でドボゥル、フォンなどのいくつかの地域でアキピテリア戦争における主要な戦いが行われていたが、制空権を奪われ、装備も旧式で旧態依然としていたアキピテリア王国軍は恐るべき勇敢さで戦ったものの、各地で敗北。グェォンで国王軍本隊が決戦により壊滅的打撃を受けると、ブテール国王はソフィア人軍事顧問の意見を漸く受け入れ、山岳地帯でのゲリラ戦に作戦を切り替えた。しかし、この時すでにアキピテリア正規軍の55%と民兵67%、ソフィア王国から購入していた僅かな戦闘機、戦車の全てが失われており、ブテール国王の決断は遅きに失していた。

山岳戦(6711年の戦い)

 7610年12月まで、レオネッサ王国軍は平野部の略奪と殺戮に従事した。エミリア・デ・ボーノはアキピテリア王国首都で徹底的な破壊と略奪を実施し、アキピテリア王室の財宝を略奪着服した。首都を破壊し、略奪し、平野部の有翼人種をあらかた殺戮したエミリア・デ・ボーノは、7611年1月、漸く山岳地帯に籠ったアキピテリア王国軍の掃蕩を開始した。しかし、ソアリングにより飛翔し、山岳地帯を縦横無尽に起動する有翼人種のゲリラ戦にレオネッサ王国軍は酷く苦戦した。レオネッサの航空機が飛翔する有翼人種を発見しても、彼らは直ぐに森林に身を隠してしまった。戦車は山岳地帯では活動できず、植民地兵士は山岳戦の本格的な訓練も無ければ、山岳装備も有しておらず、彼らは怨讐に燃えるアキピテリア兵の手強いゲリラ戦と山岳での事故により次々と命を落とした。正規兵も同様で、山岳ゲリラ戦に対抗できるのは正規軍の中でも山岳部隊だけだったが、山岳兵でも苦戦を強いられた。
 レオネッサ王国軍は山岳戦での苦戦を受けて、山岳地帯における毒ガス攻撃や焼夷弾による山林の焼却作戦を実施した。アキピテリア王国軍は毒ガスに苦しめられ、山火事に焼かれながらも粘り強く抗戦した。しかし、4月に入るとアキピテリア王国軍は武器や弾薬、食料も著しく欠乏し、飢餓関連死も急増する事態となっていた。

ザルバチ海岸共和国の参戦



影響

エミリア・デ・ボーノは終戦後も休戦協定を無視して7612年までに100万人程だったヅィェラバンドの人口の86.8%を殺戮した。ヅィェラバンドの有翼亜人のコミュニティは殆ど破壊され、現地の有翼亜人の多くの文化が失われた。レオネッサ・ファシスト政権はこの大虐殺を宣伝し、レオネッサ・ファシストの好戦性と残虐性を世界に知らしめた。

この戦争をうけて、ソフィア王国レオネッサ王国との同盟条約を更新せず、両国の同盟関係が失効した。

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最終更新:2019年09月06日 23:57