ヤーディシア大戦

ヤーディシア大戦(亜:Yadisia Great War)は7601年から7606年まで継続した史上初の世界大戦である。

ヤーディシア大戦
画像
時期:7601年8月18日-7606年9月20日
場所:イクファターナ・タヴェリア・シンガ
結果:連合国の勝利、スタックバラ体制の成立
交戦勢力
連合国
ソフィア王国
レオネッサ王国
立憲王政アーカルソン=リペルニア
ザルバチ海岸共和国
支援国
ジャーガルク・シャー国
中央同盟国
リントヴルム朝ヤード帝国
リンディスヴァート王国
カラシュ公国
支援国
大原帝国
指揮官
ルイ国王
ヴィットーリオ・ヴェネト2世
アン4世

皇帝ドミトリー3世
戦力
ソフィア王国:延べ約250万人
レオネッサ王国:延べ約570万人
立憲王政アーカルソン=リペルニア:120万人
ザルバチ海岸共和国:48万人
ジャーガルク・シャー国義勇軍4万人
ヤード帝国:800万人
リンディスヴァート王国500万人
抗連援弥軍約10万人
リンディスヴァート領南西タヴェリア植民地兵団1万人
被害者数
戦死者:
戦傷者:
行方不明者:
戦死者:
戦傷者:
行方不明者:

背景

+ ...
東ヤード帝国は東西分割以降旧領回復を目指してイクファターナ全土の制圧を国是としてきた。ザルバチ海岸共和国独立とその頑強な抵抗ぶりは帝国の領土拡大政策の大きな障害となっていた。とはいえ7510年以降、執政官ウラジーミル・サゾーノフの対イクファターナ宥和政策令によって、帝国領邦貴族は列強諸国とは協調関係を維持してザルバチ問題にのみ国力を集中させることを基本外交方針としていた。
7555年、サゾーノフ死去に伴い、元老院は新しい執政官ポンツィオ・フロッカリを任命した。サゾーノフの宥和政策令が消滅した後、帝国領邦貴族たちはザルバチ制圧に幾度も失敗した事で求心力低下を危惧し、名誉回復のためイクファターナにおける領土回復とヤードグラード(現レオネッサ王国首都レジーナ)奪回を掲げ冒険的な外交政策を展開するようになった。
西イクファターナの大国であるレオネッサ王国はかねてより中央海の制海権を巡ってヤードと紛争を繰り返しており、とくにアガルタ島の領有は領土紛争の最前線であったが、サゾーノフの努力により7560年以降、両国の雑居地としてレオネッサに開放するという協定を結んでいたが、執政官ポンツィオ・フロッカリは事実上これを反故にしてしまう。
これにより、ヤードとレオネッサは次第に対立関係に入っていくのである。
仮想敵国であったレオネッサは東タヴェリア植民地からの莫大な収益をもとに年々その軍事力を拡大しており、一方でヤード帝国は広大な領土と世界一の人口ブロックを有していながらも、7400年代に帝国統合政治改革に失敗して以来保守派が政権中枢を占め、また国内に多くの民族問題を抱えた上事実上統制のとれた動きがとれず国力を低下させていた。イクファターナにおける両国の国力は7590年代に入る頃には。ほぼ同等となっていた。
===メモ:ここから下、リンディス設定撤収のため仮設定
もはや単独でレオネッサに対抗することの限界は感じていたため、ヤードは従来の孤立外交を改め、隣接する新興の軍事大国リンディスヴァート王国との連携を図り同盟関係を構築した。7595年、大陸同盟が締結され、中央イクファターナに巨大な軍事ブロックが出現した。
 一方で、ヤードとの対立が深まる中、レオネッサ王国はヤードへの対抗を模索する中でソフィア王国との連携を強めていく。ソフィア王国もまた、西に国境を接し、クラリッサ帝国以来の宿敵であるヤード帝国への対抗の為に、レオネッサ王国との関係改善を模索していた。両者の思惑は一致し、7596年には、両国の領土問題であった「未回収のレオネッサ」をソフィア王国がレオネッサ王国に割譲する事で軍事同盟を締結した。(外交革命)
7597年、立憲王政アーカルソン=リペルニアの仲介によってホイーリントン外相会議が開催され、ヤードとレオネッサによる相互の緊張緩和と軍縮に関する取り決めが議論されたが、両国ともに一歩も譲らず、むしろ対立がより一層激化することとなった。
ホイーリントン会議の失敗を受けて、立憲王政アーカルソン=リペルニア政府はヤード帝国に対し、両国が軍事衝突した際はヤード帝国に対してあらゆる制裁措置を実行する可能性があることを示唆し、性急な軍事行動を控えるように通告した。
しかしヤード帝国の中央貴族層は開戦に慎重であった。ヤード帝国軍の大半は貴族の私兵が主だったものであったため、小国ザルバチとの国境紛争程度であれば「火遊び」に十分だが、イクファターナの軍事大国と戦争をやり合うとなると、私財をなげうちつつ手塩にかけて育てた自らの私兵集団が崩壊する可能性があったからである。
また、国内に多数存在する非ヤード系市民はヤード人のために戦争をすること拒否しておりこれらも無視することはできなかった。
貴族による反戦運動により一時は穏健派が優勢となり、一時の屈辱を受け入れるべきという意見が政府の方針となった。
 一方のレオネッサ、ソフィア両国もヤード帝国との戦争に至る事がどれ程危険な事態を招くか理解していたため、一部の獲るに足らない規模の右派を除けば戦争には消極的だった。
 事態が急展開したのは7601年6月11日のビアンカ地震である。マグニチュード7.5の大地震が発生し、ソフィア領ビアンカ、ヤード帝国トルカーナ荘園共に大きな被害を受けた。この地震の際に「この地震で混乱が広がる隙をついてソフィア王国軍(ヤード帝国軍)が侵略してくる」「黒い薔薇という敵のテロ組織、地震の混乱を利用してテロを仕掛けてくる」等のデマが広まった。「黒い薔薇」はビアンカの独立運動グループだったが、デマの中でそれらは隣国のテログループへと誤解されていき、やがてソフィア・ヤード帝国で相手国人への襲撃事件が多発した。世にいう黒い薔薇事件である。
 地震と襲撃事件の多発を受けて、ソフィア王国はビアンカの治安維持と救助のために、部分動員を発令した。ソフィア王国は治安維持と救助のための動員命令である。という旨をヤード帝国に通報した。しかし、このソフィア王国側の通報には「動員」とは記されていたが「部分動員なのか総動員なのかが記されていなかった」上、ヤード帝国側がそれを確認せずに皇帝に奏上したため、皇帝はヤード帝国軍の総動員を下命した。この帝国の総動員にソフィア王国政府は戦慄し、意図を確認したが「王国軍の動員に対する予防措置である。」と返答した。このような回答を受けて、ソフィア王国はヤード帝国による軍事攻撃の危険がある。と判断し、部分動員を総動員に切り替えた。ソフィア王国の同盟国レオネッサ王国は、ソフィア・ヤード両国が総動員を発令したため、レオネッサ王国は総動員を発令。ソフィア・レオネッサ両国の総動員をうけて、ヤード帝国皇帝は「ソフィア・レオネッサが戦争の意志がある」と看做し、政府と軍にソフィア・レオネッサ王国に対する攻撃を命じた。
 こうして、誤解と混乱の末に何が何だか良く分からないまま、ヤーディシア大戦が幕を開ける事になる。ある者は勇気とロマンに溢れた華々しい戦場、ある者は戦場での出世、ある者は戦後の利権漁りを期待していた。すべての者に共通するのは戦争は長くても降誕祭である12月25日までにおわるはずだという認識であった。
===メモ:ここから上、リンディス設定撤収のため仮設定


7601年頃の各国の勢力図。

イクファターナ戦線

北部戦線

リンディスヴァートによる初期攻勢

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「嵐作戦」戦況概要図。中立国フォンタニエと海に挟まれた狭い作戦正面に40個師団を投入したリンディスヴァート王国軍は右翼にて対峙するレオネッサ王国軍に襲い掛かる。
(※国名表記等、修正がありましたら差し替えます)
リンディスヴァートの参戦
国王の強硬な参戦主張を諫め続けてきたリンディスヴァート王国軍指導部であったが、参戦が不可避となってからの動きは迅速を極めた。対麗戦争における勝利の処方箋として数十年にわたって研究されてきた戦争計画「アードルング・プラン」に基づき、南部戦線に送られる予定の師団を除く常備軍の約80%の配置転換が開始されると共に王国全土で動員令が発布された。王国とシンファナ地域とを結ぶ国際公益鉄道(リンディス資本によって敷設された長距離路線)の輸送力も動員した強行軍により、途上の中立諸国を呑み込みつつフォンタニエ国境=西岸間の狭窄部まで進撃。これに遅れる形で北上してきたソフィア・レオネッサの先遣師団群と接敵し、遭遇戦を繰り返しつつ9月中旬には約170kmの戦線を構築した。東翼を担当する第2軍(クレインハウゼン公爵)がソフィア王国軍を相手に徐々に後退し深入りを誘う一方、フォン・ザールハイム大将率いる第1軍の後方では着々と予備部隊が集結し、物資や砲弾が蓄えられていった。
嵐作戦の発動
9月26日の午前4時、海岸近辺に布陣したレオネッサ王国軍の将兵は突如として大砲撃に見舞われた。この砲撃は連合軍航空偵察部隊の監視をくぐり抜けて集められた軍直轄重砲旅団、独立砲兵師団、各師団砲兵、また大原帝国の駆逐艦・砲艦数隻の艦砲によって1時間実施され、レオネッサ王国軍前衛部隊の指揮統制は事実上、粉砕された。
第1軍麾下のジークリット集団(3個騎兵師団、2個歩兵師団)は捕虜を収容する友軍歩兵、しまいには敗走するレオネッサ王国軍をも超越して前進。作戦初日で40kmの突破に成功する。
突破の報を受けたソフィア王国軍も初日こそ突破部隊の阻止を志向したが、ソフィア野戦軍司令官ジャン・プールシュイヴァント将軍の適切な判断によって後方の山岳部に設けられた要塞線への後退を開始する。戦線西翼ではジークリットの騎兵部隊が回廊部、そしてその先のレオネッサ本土に向けて邁進する一方、東翼では突出したソフィア野戦軍の包囲殲滅を狙う王国軍とレオネッサ兵の生き残りを収容しつつ後退するソフィア王国軍の命懸けのレースが繰り広げられる事となった。
「カラドリウスの嘴」での戦い
嵐作戦の初日にレオネッサ軍戦線を突破したジークリット・リレハンメル中将率いるジークリット集団には「第1軍の先鋒としてシンファナ海沿岸地帯を進撃しレオネッサ国境付近の回廊部分を突破、10月中にはレオネッサ本土に侵攻する」という、単純ながらも困難を極める任務が与えられていた。
後にリンディスヴァート将兵から「カラドリウスの嘴」と呼ばれるようになるこの回廊部はフォンタニエ方面から延びる中央山脈とそれに依拠した要塞線の断絶帯によって形成される、いわばレオネッサ王国の国防上の急所であった。当然ながらレオネッサ軍による防備は予想されていたが、レオネッサ本土に侵攻する為の最大にして唯一の進撃路はこの幅20km前後の平原地帯であり、カラドリウスの嘴の迅速な突破こそがアードルング・プラン成功の鍵であった。

ジークリット集団の戦闘序列は以下の通り。
  • ジークリット集団司令部(ジークリット・リレハンメル中将)
    • 第1近衛騎兵師団(フォン・グライフェンベルク中将)
    • 第1騎兵師団(フォン・ホーエンハウゼン少将)
    • 第2騎兵師団(リンデマン少将)
    • 第3歩兵師団(オルブリヒト少将)
    • 第7歩兵師団(アーレフェルト少将)
    • 第701機動砲兵旅団(クリスチャンセン少将)
    • その他の付属部隊

また、カラドリウスの嘴の突破の為に以下の方策が採られた。
1.攻勢初期におけるレオネッサ前衛野戦軍の迅速な殲滅
回廊の突破の為、当然ながら守備部隊の最小化が求められた。すなわち、攻勢初動で撃破したレオネッサ野戦軍を迅速に包囲殲滅し、続く回廊部での攻防に参入させない事が必須条件となった。レオネッサ前衛野戦軍の殲滅は概ね満足すべき進捗を示し、17万人のレオネッサ捕虜と各種装備の鹵獲に成功した。
2.戦線東部に布陣するソフィア軍の前方への誘因と拘束
回廊防衛への参入、あるいは側面攻撃の可能性を除去する為、戦線東部に布陣したソフィア軍をなるべく前方に誘因する事も不可欠とされた。ソフィア軍の対峙した第2軍による欺瞞的な後退と遅延戦闘が実施され、ソフィア軍の戦闘詳報にも局地的優勢についての記述が確認されている。リンディスヴァート軍の目論見通りに攻勢に出ていたソフィア野戦軍は誘因・拘束され後に要塞線への死の逃避行を演じる事となるが、プールシュイヴァント将軍の適切な指導によってジョルジュ・ド・デュムーリエ将軍の騎兵軍団が早期に戦線を離脱し、回廊部の防御に加わる事となった。このデュムーリエ将軍の騎兵軍団の来援は回廊部の攻防の結末に大いに影響する事となる。

10月4日未明、ジークリット集団の先鋒部隊(第2騎兵師団の偵察大隊)が嘴の10km手前まで進出。併せて回廊部の結節点となる街グリッシーニを目指して機動するソフィア騎兵軍団を捕捉し師団司令部に通報。第2騎兵師団より報告を受けたリレハンメル中将は即座に攻撃命令を下し*1、同師団による応急攻撃が実施され、併せて各師団にて攻撃準備が整えられた。
第2騎兵師団による応急攻撃は失敗に終わりソフィア騎兵軍団は無事にレオネッサ軍守備隊との合流を果たしたが、4日中に準備を整えたリンディスヴァート軍は全軍から掻き集めた機動砲兵(自動車化砲兵、騎砲兵)によるグリッシーニ砲撃を実施し、昼間は歩兵師団を主攻とする攻勢、夜間はケンプフピュートンの強襲兵団*2による攻撃でカラドリウスの嘴に布陣するレオネッサ・ソフィア軍を圧迫した。レオネッサ守備兵と馬を降り歩兵と化したソフィア騎兵を相手に激しい陣地戦が行われ、多大な損害と72時間という貴重な時間を費やしながらも7日の夕方にはグリッシーニ市街地の入り口まで到達した。グリッシーニ占領、カラドリウスの嘴の突破、そしてレオネッサ本土への侵攻は目前まで近づいていた。
戦艦Clarissa Empireによる攻勢破砕射撃
グリッシーニ市街での最後の熾烈な夜戦の末、10月8日の朝にはジークリット集団より攻撃を引き継いだ第1軍麾下の歩兵部隊によって同市の主要施設が概ね制圧された。
既に連合軍部隊はグリッシーニ南方への退却と阻止線の構築を始めていたが、いまだ市中ではレオネッサ兵を主とする決死隊が建築物や下水網に立て籠もり戦闘を継続し、ソフィア兵もまた後衛として友軍の退却を支えていた。
8日13時、ソフィア海軍の戦艦Clarissa Empireを旗艦とする戦隊がグリッシーニ沿岸に到着、グリッシーニの市街地に向けて砲撃を開始する。
戦艦の主砲を含めたあらゆる砲煩兵器が火を噴き、両軍の兵士と避難の遅れた民間人諸共にグリッシーニの街は消滅し、回廊部に存在するあらゆる人工物に砲撃が加えられた。リンディスヴァート人、ソフィア人、レオネッサ人、ケンプフピュートン、その他の亜人。一切の別なく、グリッシーニ近郊にいたあらゆる人間が2時間の砲撃で命を奪われた。カラドリウスの嘴にはリンディスヴァート軍の進撃を阻むかの如く砲撃による赤黒い帯が残された。
10日夜、ジークリット集団にはフォンタニエ国境付近より後退するソフィア野戦軍の捕捉と包囲撃滅が命じられる。これによってレオネッサ王国の電撃的占領と早期戦勝の野望は潰え、5年にも及ぶ長く絶望的な大戦の本当の幕が開ける事となった。
(以下編集中)

リペルニア沖海戦

本来アトリオン海軍との交戦を想定していなかったリンディスヴァート王国海軍は、港でアトリオン海空軍の攻撃を受け艦隊を殲滅される危険を踏まえ、アトリオン参戦の報が入ると速やかに艦隊をリントヴルムポリス方面に退避させ、ヤード艦隊と合流させることを目指した。
しかしながら出港が遅れ、ベルヴィル・アン・ソレイアド沖の通過時点で開戦時間を既に経過してしまっていたため、アトリオン海空軍はリンディス艦隊のヤード艦隊への合流を阻止するためリペルニア沖でリンディス艦隊と交戦した。

翠玉海艦隊追跡戦

リペルニア沖海戦を切り抜けリントヴルムポリスに向かうリンディス艦隊をアトリオン海空軍は追撃した。

第2次リントヴルムポリス強襲作戦(仮)



北海海戦

グリット方面通商破壊作戦。リントヴルムポリスに拠点を置いたリンディス艦隊によるアトリオンの通商破壊作戦。

ミネルヴァスハーフェン上陸作戦

モジュレーション作戦発動時点でのリンディスヴァート軍戦力配置図。7603年の7月10日は快晴であった。
背景
ヤーディシア大戦の緒戦を海軍力の行使によって貢献してきたアーカルソン=リペルニアであったが、北部・南部両戦線で膠着状態が続きレオネッサ・ソフィア軍で継続的に損害が出るなかでアトリオン陸軍による第三戦線構築が7602年初頭から構想され始める。この構想は「負担の正当な配分」として次第にアトリオン国内でも(主に主戦派議員によって)推進され、遂に7603年7月に「モジュレーション作戦」としてリンディスヴァート沿岸上陸作戦が発動された。
アトリオン軍の計画
アトリオン島から発進する戦闘機の航続距離の問題から上陸地点の選択は厳しい制限を受けた。海峡沿岸のベルヴィル・アン・ソレイアドはアトリオン島からもっとも近く、また大規模港を備え上陸部隊への補給の面でも利点があった。しかし当然の事ながらリンディスヴァート側も連合軍によるベルヴィル・アン・ソレイアドへの上陸を警戒しており、守備隊による強烈な抵抗が予想された。第二案はその北のミネルヴァスハーフェンであり、ここにも上陸に適した幅広い海岸が存在した。問題は上陸地点の南北の岬に建設された防護陣地からの阻止攻撃であり、上陸部隊を援護する海軍艦艇への被害が懸念された。両論の支持者達の間で議論は紛糾したが、海軍首脳部がリスクを許容した事と王立空軍第2艦隊の航空支援によって抵抗拠点を排除できるとの観測から結局アトリオン軍は上陸地点にミネルヴァスハーフェンを選択した。

7602年5月には植民地軍を主力とし、王立海兵隊、海軍陸戦師団、本国艦隊、空軍第2艦隊、同戦闘機コマンド、同爆撃機コマンドから成るアトリオン大陸派遣軍が編制され、本作戦の地上部隊最高司令官である第1軍司令官にはウィルステッド侯爵アルカン・ラースティンが任命された。
アトリオン大陸派遣軍の序列は以下の通り。
  • 地上部隊(第1軍)
    • 北ゴーシュ第1歩兵師団
    • 北ゴーシュ第2歩兵師団
    • 北ゴーシュ騎兵師団
    • ニューリペルニア植民地師団
    • ヴェルレニース軽歩兵師団
    • ニューアーカルソン歩兵師団
    • 王立海兵師団、隷下の海兵コマンド諸隊
    • 海軍陸戦師団
    • 第1統制火力師団(砲兵支援)
    • 各種独立部隊
  • 海軍(本国艦隊)
旗艦クニンガズ・アルカル、ロイヤル・クラウン、ニューフォートレス以下、戦艦6、巡洋戦艦4、巡洋艦12、駆逐艦30、上陸用に調達された各種徴用船2200
  • 空軍第2艦隊
旗艦インペリウム、アステリズム、プロビデンス、スペリオリティ以下、空中戦艦4、戦列艦6、その他の付随艦艇、護衛として戦闘機コマンドより第4航空隊
戦闘機コマンド、爆撃機コマンド隷下の各種作戦機 のべ400機

(また、ベルヴィル・アン・ソレイアドへの陽動として「リジェネレーション作戦」も計画され、本上陸の3時間前に2個の海兵コマンド大隊と本国艦隊からの分艦隊、空軍作戦機による攻撃が計画された。)

最初の30日間の目標は次の通り定められた。
  • ミネルヴァスハーフェンの港湾施設の確保
  • 上陸地点より縦深20km以上の戦線を構築、陸軍師団を主とする後続部隊の為の橋頭保と臨時飛行場の確保

リンディスヴァート王国軍の状況
本土防衛は東部総軍が担当しており、その総司令官はイントヴァルド大公ゲルハルトであった。3個の軍集団によって王国全土が責任地域として割り当てられ、ミネルヴァスハーフェンを含むリンデリア(王国中部)はA軍集団が責任を負っていた。A軍集団の司令官にはレンツィゲン公爵コンラートが補されており、ミネルヴァスハーフェンとベルヴィル・アン・ソレイアドの防衛の為に第15軍が配置されていた。
A軍集団司令官であるレンツィゲン公爵は「寸土たりとも連合軍にライヒの土を踏ませてはならない」という確固たる意志の下、水際撃滅による防衛を主張。しかしレンツィゲン公爵の考えはA軍集団の上位にある東部総軍総司令官イントヴァルド大公の考えと対立する。大公は内陸部に連合軍を敢えて引き込み、連合軍の橋頭堡がまだ固まりきらないうちを狙って撃滅する作戦を支持した。両者の論争を解決させる為、王国大本営はA軍集団麾下の諸師団の70%を海岸線に貼り付ける一方、騎兵師団や装甲車・戦車部隊を海岸から離れた位置に温存配備し大本営の承認無しでは運用出来ないとする事で、戦術の方向性は折衷案のような形を取って決着する。この判断は後になって問題になった。

アトリオン軍の上陸部隊を一手に引き受ける形となった第34軍団はミネルヴァスハーフェンとベルヴィル・アン・ソレイアドの沿岸要塞を擁し、3個歩兵師団と1個騎兵師団を主力としていた。
第34軍団の序列は以下の通り。
  • 第25歩兵師団
  • 第306郷土防衛師団
  • 第307郷土防衛師団
  • 第7騎兵師団
  • 第311独立沿岸砲兵連隊(ミネルヴァスハーフェン)
  • 第319独立沿岸砲兵連隊(ベルヴィル・アン・ソレイアド)
東部総軍の諸師団のほとんどは二線級であったが、第34軍団は南部戦線から下げられ再編成の途上にあった第25歩兵師団をその麾下に加えられていた。第25師団はビアンカでの連戦でその戦力を大幅に減じていたが、生き残った経験豊富な古参兵を基幹に十分な戦闘力を持った師団として再生しつつあった。またその存在も他の師団の士気を多少なりとも上げる要因の一つとなった。
上陸部隊の主力を迎え撃つ事となった第307郷土防衛師団、ミネルヴァスハーフェンの中心街を受け持った第306郷土防衛師団は本来保有しているべき重装備の一部を欠いた状態で7月10日を迎える事となった。
ミネルヴァスハーフェンの沿岸要塞には第311独立沿岸砲兵連隊、ベルヴィル・アン・ソレイアドには第319独立沿岸砲兵連隊が駐屯していた。これらの要塞には陸揚げされた旧式の海軍艦砲が設置され、長期にわたって陸海の敵を攻撃した。アトリオン海軍本国艦隊、空軍第2艦隊はこの制圧の為に継続的な攻撃を実施したが、その効果は限定的なものに終わった。
内陸部に控置されていた第7騎兵師団もまた戦闘経験を持たず、他師団と同様に火砲による支援の一部を欠いていた。しかしながら隷下のアイブリンガー伯爵軽騎兵連隊は実質的には大隊規模の装甲車部隊であり、重火器を持たない上陸第一波に対する初動対応で大いに活躍する事となった。

上陸前夜
ミネルヴァスハーフェン上陸の前準備として、海軍による活発な海域哨戒・機雷原の掃海と空軍による航空戦・航空偵察が数か月にわたって実施された。地上部隊もリペルニア島東部で数回の上陸演習を実施した。
リンデリア上空での航空戦では戦闘機の航続距離の関係からアトリオン空軍は苦戦を強いられた。第2航空艦隊はミネルヴァスハーフェン上空での作戦行動が可能な能力を備えていたが、戦闘機の直掩が期待できない敵地上空での作戦行動を忌避した空軍首脳部によって見送られた。
リンディスヴァート王国軍の情報部もアトリオン軍による大規模な水陸両用作戦の可能性を7603年初頭には東部総軍に警告し、A軍集団の責任地域での重点的な防備拡充が進められた。この動きは遅きに失していたものの、北部戦線から配置転換された部隊はその後の戦いで大きな役割を担う事となる。

7603年7月9日22時、海軍本国艦隊の援護の下、モジュレーション作戦に参加する5個師団の将兵を乗せたアトリオン島から出航。ラースティン将軍の上陸部隊司令部も本国艦隊旗艦クニンガズ・アルカルに移った。

上陸
ラースティン将軍の総指揮の下、ミネルヴァスハーフェンの上陸地点は北から順にキング(ゴーシュ第1歩兵師団)、ルーク(ニューリペルニア植民地師団)、ナイト(ヴェルレニース軽歩兵師団)、ビショップ(ニューアーカルソン歩兵師団)、クイーン(王立海兵師団)の5つの上陸管区に分割された。
7月10日午前5時、海軍本国艦隊の主力艦と空軍第2艦隊の空中戦艦による海空からの砲撃、爆撃機による空爆が開始。上陸地点の周辺に点在する防御陣地、鉄道駅、民間建築物、十字路、その他あらゆる人工構築物がその標的となり、1時間30分の準備射撃で一帯は地獄の様相を呈した。
午前6時30分、5つのビーチを担当する各師団の上陸第一波が一斉に敵前上陸を開始。作戦指導部では海空からの圧倒的な砲爆撃により守備隊は壊滅すると予測されていたが、上陸した将兵達はその見立てが甘かった事を数分後には身をもって知る事となった。

  • キング・ビーチ
事前に分割された5つのビーチの中でもっとも北部に位置し、ミネルヴァスハーフェンの市街地にも近かったキング・ビーチは歴戦の北ゴーシュ第1師団が上陸を担当した。
北の岬に構築された沿岸要塞は猛烈な艦砲射撃と航空攻撃にも耐え、沿岸砲による阻止攻撃で多数の上陸用舟艇が着岸前に撃沈された他、直協についていた駆逐艦が損傷する被害を蒙り、無事に上陸した将兵も高い護岸堤とトーチカ群に阻まれ第一波として上陸した3個中隊は全滅に近いレベルの損害を受けた。結局は昼前に第1統制火力師団の重砲による果敢な近接射撃(沿岸要塞が健在の中を大型輸送船でビーチ前面まで進出し、甲板上にて直接照準で発砲している)で護岸の一画が破砕されるまでキング・ビーチでの前進は頓挫した。海岸線を突破した北ゴーシュ兵達が市街地の外縁部にとりついた所で一日目は終わったが、彼らには1週間にもおよぶ過酷な市街戦が待ち受けていた。
  • ルーク・ビーチ
隣接するキング・ビーチで北ゴーシュ兵がもがき苦しむ一方、その南のルーク・ビーチに上陸したニューリペルニア植民地師団の将兵はさしたる抵抗も受けず、比較的軽微な損害で橋頭保を確立した。
  • ナイト・ビーチ
ナイト・ビーチに上陸したヴェルレニース軽歩兵師団の上陸第一波は巧妙に配置された防御構築物と要塞化された小村を前に苦戦を強いられたが、最終的には白兵戦にて村を制圧。日が落ちる前には一帯に防衛線を構築し、後続部隊の来援を持った。(そしてこの日の夜、ヴェルレニース兵は再び死闘を繰り広げる事となった。)
  • ビショップ・ビーチ
ビショップ・ビーチでは海軍による誘導が拙くニューアーカルソン歩兵師団の上陸第一波は予定より4km北の地点に上陸したが、結果としてこれは防御の薄い箇所を衝く事となった。一日目の死傷者は5つのビーチで最も少ない203名であり、初日としては最も内陸部へ切り込んだ師団となった。
  • クイーン・ビーチ
最南端、要衝ベルヴィル・アン・ソレイアドにも近いクイーン・ビーチへの上陸は王立海兵師団が担当したが、沿岸要塞からの射撃と第25歩兵師団による水際防御によって同師団は最悪の苦難を経験した。上陸第一波は事前砲撃を耐えきったトーチカ群からの反撃を前に「中隊名簿は瞬きの間に戦死者名簿となった」と語られる程の損害を受け、事実上粉砕された。昼を待たずして上陸そのものの中断すら検討されたが、岬に取りついた海兵コマンド大隊によって沿岸砲の一部が制圧された事、第1統制火力師団の重砲が火力支援に参入した事でクイーン・ビーチでの上陸は継続された。15時20分にはグレアム・モーズリー大佐の陣頭指揮の下で後続部隊による攻撃が再興され、夕闇が迫る中、海兵隊員達はささやかながらも初日の内に橋頭保と呼べる程度の不動産を確保する事に成功した。
(クイーン・ビーチでの損害はおよそ3000名にも達し、その後の戦線南翼における内陸侵攻の主力は後続の海軍陸戦師団に譲る事となったが、それでも師団残余は再編成を繰り返しつつ終戦まで戦闘を継続している。)

リンディスヴァート王国軍の迎撃
上陸部隊を迎え撃つリンディスヴァート王国軍第34軍団は上陸開始前の砲爆撃で一時的な混乱に陥ったが、その後の水際迎撃では軍団長バルタザール・ケンプフェルト中将の統率の下で優れた防御戦を展開した。7月10日当時、東部総軍総司令官イントヴァルド大公とA軍集団司令官レンツィゲン公爵という反目し合う二人の上官はデオルムントに参宮しており、皮肉にも上官の不在はケンプフェルト中将による指揮を容易なものとした。しかしながら内陸部に控置されている騎兵師団やその他の快速部隊を動かすには大本営の承認が必要であり、第34軍団は反撃の主力となる戦力を欠いた状態で7月10日を凌ぐ必要があった。
ビーチ北部(キング・ルーク)は第306郷土防衛師団、中南部(ナイト・ビショップ)は第307郷土防衛師団、ベルヴィル・アン・ソレイアドに近い南端(クイーン)は第25歩兵師団がそれぞれ担当した。沿岸に構築された防衛拠点の大半はいまだ完成には程遠い状態であったが、それでも艦砲射撃と航空攻撃に耐えるだけの強度は発揮した。南北の岬に構築された沿岸砲台は上陸船団に猛射を加え、アトリオン植民地兵はビーチ一帯に埋設された地雷とトーチカからの射撃で瞬く間に消耗していった。
午後には正確さを増した火力支援と物量を前に各拠点で守備隊の敗走が始まるが、あらかじめ練られていた後退計画に基づき日没前には内陸部に新たな防衛線が構築された。中央部ナイト・ビーチでは制圧された村を奪還すべく夜襲部隊が編成され、家の一つ一つを巡って凄惨な白兵戦が展開された。
結局7月11日未明の時点で5つのビーチにそれぞれ橋頭保の確立を許してしまったが、それらは相互に連携しない小さなシミのような状態であり、後方に温存された機動部隊による反撃をもってすれば重火器を持たない上陸部隊の覆滅は可能であるというのが第34軍団首脳部の見解であった。ミネルヴァスハーフェン市街地を守備する306師団主力はいまだ健在であり、南北の沿岸要塞も海兵コマンド部隊の攻撃を受けつつもよく防御していた。

沿岸要塞の掃討と内陸侵攻
ミネルヴァスハーフェンの女神
ミネルヴァスハーフェン航空戦とプロビデンスの喪失
「橋頭保と呼ばれる包囲環」
リグレンシア戦車戦
大戦末期におけるミネルヴァスハーフェン橋頭保

海峡の空戦

ミネルヴァスハーフェンの補給途絶を図るリンディス空軍による海峡部での作戦。

南部戦線

中央海の戦い

中央海の戦いは、アガルタ島領有権を巡るレオネッサ王国リントヴルム朝ヤード帝国の戦いと共に、タヴェリア方面への補給を巡る戦いでもあった。
レオネッサ王国海軍を中心とする連合国軍と帝国軍による激しい艦隊戦が繰り広げられた。
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開戦時の両軍戦力(メモ
  • ソフィア王国海軍
弩級戦艦4隻、巡洋艦10隻、駆逐艦16隻
  • レオネッサ王国海軍
弩級戦艦3隻、旧式戦艦11隻、装甲巡洋艦10隻、軽巡洋艦13隻、駆逐艦36隻、潜水艦18隻、水雷艇97隻
  • 王立海軍蒼海洋艦隊
弩級戦艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦12隻
※後にジャーガルク・シャー義勇艦隊が加わる
軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、水雷艇2隻

  • ヤード帝国中央海艦隊
弩級戦艦3隻、旧式戦艦12隻、装甲巡洋艦3隻、軽巡洋艦7隻、駆逐艦26隻、潜水艦6隻、水雷艇62隻

ソフィア戦線/ビアンカ会戦(第1次~14次)

 名将アルプレヒト大公が率いるヤード帝国軍は、ビアンカ地方からソフィア王国に侵入しようとしたが、ソフィア王国軍は陣地を構築して守りを固めて宣戦を突破することが出来なかった。ヤード帝国軍は緒戦で躓くとソフィア王国軍、援軍のレオネッサ王国軍との激しい消耗戦に巻き込まれ、両陣営共に膨大な犠牲者を生じる事となった。
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第1次ビアンカ会戦
 ヤード帝国軍は帝国領トルカーナ荘園からソフィア王国領ビアンカ、アルピナに侵入する計画を立てた。帝国軍はビアンカ方面から進撃する軍隊として、ロストフ荘園のアルブレヒト大公を最高司令官とするアルブレヒト大公軍(第6軍(エミリア)、第11軍(ダンクル)、第15軍(シグルーン))及びルノ・カスパー・ロウ男爵指揮するカラシュ公国軍6個師団からなるビアンカ方面軍を編成した。7601年8月30日、ビアンカ方面軍は一斉に国境を越えてソフィア領ビアンカに侵入した。しかしフィリップ大公が指揮するソフィア王国軍9個師団(ソフィア第2軍)が展開していた上、ビアンカ市近郊にビアンカ要塞と呼ばれる数十からなる堡塁に防御されていたため防御は硬く、4日間で14万人の死傷者を出して攻勢はとん挫した。特にカラシュ公国軍は大公軍の弾避けに使われたため、途方もない損害を出した。帝国軍の攻撃がとん挫すると、ソフィア王国第2軍はアルピナ方面のソフィア第1軍と連携してビアンカ方面でも攻撃を開始した。だがビアンカ方面ではソフィア王国軍は2日間で4万人の損害を出し、陣頭指揮を執っていたヴフレール将軍も戦死したため反撃は失敗した。第1次ビアンカ会戦の後、レオネッサ王国軍は弱体なソフィア王国軍を援護すべくアールスタ公の25個師団20万人(ソフィア派遣軍)をビアンカに派遣した。
 ルイ国王とソフィア王国軍参謀本部は第1次ビアンカ会戦を冷静に分析し、ビアンカ方面では兵力劣勢なソフィア王国軍主体の積極的な攻勢を禁止し、以降ビアンカ方面ではレオネッサ・ソフィア派遣軍が連合軍構成の主力となる。
 一方アルプレヒト大公軍は南部で危険な状態に陥っているトルカーナ公爵軍を救援するためにシグルーン公女の第15軍を南部に派遣せざるをえず、態勢の立て直しを迫られた。

第2次~第4次ビアンカ会戦
 レオネッサ王国ソフィア派遣軍は更なる増援を受けて46万人まで増大し、攻勢を企画した。レオネッサ王国軍は第1次ビアンカ会戦で損耗したヤード帝国軍に7601年10月、11月、12月に計3回の大攻勢を仕掛けた。アルプレヒト大公は巧みな指揮能力を示してこれをすべて撃退した。レオネッサ王国軍は28万人の死傷者を出し、ヤード帝国軍は12万8000人の死傷者を出した。アルプレヒト大公軍は大損害を受けたうえ、一個軍を南部に派遣していたために兵力が欠乏しており、本国に増援を要請した。帝国軍はシュヴァルツェンベルク公爵軍を派遣する事を決めたが、シュヴァルツェンヴェルク公爵が戦線に到着するのは2年後の事になる。

第5次~第7次ビアンカ会戦
 7602年5月7日、レオネッサ王国ソフィア派遣軍は戦力を立て直すと再度大攻勢を開始したが、アルブレヒト大公はこれを撃退した(第5次ビアンカ会戦)。
 アルブレヒト大公はレオネッサの圧力を緩和すべく、反撃に打って出た。
アルブレヒト大公はカラシュ公国軍を陽動としてビアンカ要塞を攻撃させ、ダンクル将軍の第11軍に援護された姪のエミリア公女を司令官とする第6軍(エミリア軍)にはビアンカ要塞に立てこもるソフィア軍を迂回、ピアジェ川対岸のレオネッサ王国軍攻撃を命じた。この攻勢は当初成功し、レオネッサ2個師団が壊滅したが、エミリア軍の損害も少なくなく、レオネッサ王国軍の危機を救うべく来援したラ・クレオル将軍のソフィア王国第2軍団により攻勢は最終的に阻止された。レオネッサ王国軍は14万人、ヤード帝国軍は8万7千人、ソフィア王国軍は約1万人の死傷者を出した(第6次ビアンカ会戦)。
 7月18日、レオネッサ王国軍は戦力を立て直すと、ベルサリエーリ師団を先鋒にエミリア軍に猛撃を加えて失地を全て奪回した。エミリア軍はベルサリエーリの猛攻に崩壊しかけたが、エミリア公女の副官オイゲンの巧みな指揮によりエミリア軍の崩壊は辛うじて防がれ、撤退に成功した(第7次ビアンカ会戦)。第7次ビアンカ会戦ではレオネッサ王国軍5万、ヤード帝国軍4万の死傷者を出した。

第8次~第10次ビアンカ会戦
 7603年1月22日、ビアンカ戦線で苦戦するアルブレヒト大公軍を加勢するべく、ヤード帝国リントヴルム荘園より、シュヴァルツェンベルク公爵が皇帝に兵力30万をあたえられてビアンカ戦線に投入された。しかしシュヴァルツェンベルク公はアルブレヒト大公と不仲であったうえ、シュヴァルツェンベルク公自身も政治家としては優秀だったが軍事指揮官としては無能だった。。
 2月24日、シュヴァルツェンベルク公爵軍はアルブレヒト大公軍からカラシュ公国軍の指揮権も貸し与えられたうえで、兵力的には弱体とみられるソフィア王国軍区域に大型重砲グスタフ・ドーラを持ち出して大攻勢を仕掛けた。シュヴァルツェンベルク公爵軍は一部の堡塁を撃破し、占領したものの、最終的に攻勢はとん挫させられた。しかもレオネッサ王国軍の支援をうけたラ・クレオルのソフィア第2軍団の逆襲が始まり、凡そ約1ヵ月半の戦闘でソフィア王国軍は約12万人の死傷者を出し、シュヴァルツェンベルク公爵軍とカラシュ公国軍は31万人の死傷者、10万人近い捕虜を出して壊滅した。悪い事にシュヴァルツェンヴェルク公爵も、公爵軍もアルブレヒト大公との不仲と帝国軍の根本的な組織的欠陥の為に連携が取れず、シュヴァルツェンベルク公爵軍が壊滅状態になった段階でようやくアルブレヒト大公軍のエミリア軍が救援に駆けつけ、戦線の崩壊は防がれた(第8次ビアンカ会戦)。
 ソフィア王国軍は捕虜にした帝国兵10万人すべてを殺害し、一部は首を切り落として鉄条網に設置して見せしめにしたので、帝国軍兵士は怨讐と同時に恐怖を抱き、士気の低下を招いた。
 第8次ビアンカ攻勢後、レオネッサ王国軍は帝国軍の戦力低下を見て取って2度にわたって攻勢を実施したが、アルブレヒト大公軍は撃退した。
シュヴァルツェンヴェルク公爵軍の残余も激しく抵抗し、第8次ビアンカ会戦の汚名を返上した。レオネッサ王国軍は10万人の死傷者、ヤード帝国軍は7万6000人の死傷者を出した(第9次、第10次ビアンカ会戦)。

第11次、第12次ビアンカ会戦
 10次にもわたるビアンカ会戦、そして南部ソフィア戦線での度重なる大損害にヤード帝国軍は戦力の損耗が激しく、危険な状態となっていた。レオネッサ王国軍参謀長ルイージ・カッヴァ―レロは大攻勢を実施したが、ヤード帝国軍を援助するためにリンディスヴァート王国軍は軍団を派遣しており、この大攻勢はレオネッサ王国軍17万人の死傷者を出して失敗に終わった。(第11次ビアンカ会戦)
リンディスヴァート王国軍マクシミリアン大公は、これ以上レオネッサにヤード帝国に対する圧力をかけ続させるのは危険と判断した。マクシミリアン大公は麾下の3個師団と再編したシュヴァルツェンブルク公爵軍残余を指揮下に置いたリンディスヴァート王国軍マクシミリアン軍団を編成。カラシュ公国軍にビアンカ要塞を攻撃させ、アルブレヒト大公軍と共に大攻勢を開始した。中央同盟軍はピアジェ川対岸のレオネッサ王国軍を新戦術で襲撃した。レオネッサ王国軍は中央同盟軍の新戦術に丸太打ちできず、壊滅的な損害をうけた。弾避けにされ、帝国軍の囮としてビアンカ要塞を攻撃したカラシュ公国軍に大きな損害を与えていたソフィア王国軍は包囲殲滅される危険から、ビアンカ要塞とビアンカ市を放棄してレオネッサ王国軍の敗残軍を救出しつつ、ユーリア川まで後退した。中央同盟軍は僅か8万の損害(内6万名がカラシュ公国軍だった)と引き換えにソフィア王国軍約11万人、レオネッサ王国軍4万の死傷者と27万の捕虜を出した。
 第11次、第12次ビアンカ会戦の敗北によりレオネッサ王国軍参謀総長ルイージ・カッヴァ―レロは更迭され、後任にマーリオ・ディアスが襲った。

第13次ビアンカ会戦
 ヤード帝国アルブレヒト大公はこれまでの会戦による勝利を受けて、ヤード帝国軍は危険な状態にあるが、勝利は目前であると判断していた。レオネッサ・ソフィア軍共に壊滅状態であるとみられており、更なる一撃を加えればソフィアは降伏し、レオネッサ本国への侵攻が可能になるであろう…。アルプレヒト大公はリンディスヴァート王国軍の反対を押し切り、南部ソフィア戦線のライラント荘園軍と共に大攻勢に打って出る。帝国軍はカラシュ公国軍を弾避けにしつつ、大公軍主力でユーリア川のソフィア王国軍に攻勢を仕掛けた。しかし、攻勢はとん挫した。ソフィア王国軍は最早あらゆる資源を投じて軍隊を再編成しており、多数の女性兵士をも投入してユーリア川の陣地を固守した。更にレオネッサ王国軍の増援部隊が続々到着し、ヤード帝国軍の攻撃は失敗に終わった。

第14次ビアンカ会戦
 帝国軍は第13次ビアンカ会戦の失敗により危険な状態にあった。カラシュ公国軍のロウ男爵は優秀な指揮官だったが、攻撃のたびに弾避けにされ、装備も待遇も悪いカラシュ軍将兵には劣等感とヤード帝国軍への不信感が蔓延り士気が著しく低下していた。カラシュ公国軍は10分の1刑などを実施して規律の維持に努めたが、士気の低下に歯止めはかからなかった。ヤード帝国軍将兵も物資の不足と疲労、ソフィア王国軍の残忍さの為に疲弊しきっていた。
 このような状態から、アルブレヒト大公軍はビアンカを獲得したものの戦線を維持する事が限界だった。これまで積極的な攻勢に殆ど参加してこなかったソフィア王国軍は、残された戦力を結集してレオネッサ王国軍と共に大攻勢を開始した。アルブレヒト大公はリンディスヴァート王国軍マクシミリアン大公と共に見事な防戦を繰り広げつつ、カラシュ公国軍を弾避けにして徐々に後退していったが、7605年3月15日、戦線は融解し、アルブレヒト大公軍はちりじりになって崩壊した。
 3月30日、アルブレヒト大公軍が融解して大混乱に陥る中、マクシミリアン大公に適切な指揮されたリンディスヴァート王国軍とシュヴァルツェンベルク公爵軍(マクシミリアン軍団)はアルブレヒト大公軍の残余を救出しつつ秩序だってソフィア・ヤード帝国国境まで後退した。
 4月2日、連合国と中央同盟の間で休戦協定が結ばれ、戦争は終わった。
第14次ビアンカ会戦でヤード帝国軍は30万人の捕虜を出したが、そのすべてが講和条約締結前までにソフィア王国軍に殺されていた。

南ソフィア・トルカーナ戦線

ソフィア南部、アルピナを巡りソフィア王国軍とヤード帝国軍は12回もの会戦を戦った。アルピナの工業地帯を死守するべく、アルピナ方面にはレオポルド・カスパール将軍指揮下の18個師団ものソフィア王国軍(ソフィア第1軍)が展開しており、ヤード帝国軍トルカーナ公爵軍と激戦が繰り広げられた。
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トルカーナ国境会戦(第1次アルピナ会戦)
 ヤード帝国軍は当初の計画ではアルプレヒト大公指揮下のビアンカ方面軍(アルプレヒト大公軍)とアルピナ方面のトルカーナ公爵軍が同時に国境を越境し、ソフィアに進撃する予定であったが、連絡の不備と連携不足から7601年8月30日にはアルプレヒト大公軍だけが国境を越える事となった。トルカーナ公爵軍がアルピナ方面に攻勢を仕掛けたのは翌日になってからで、アルピナ方面のソフィア王国軍には既に警報が発せられており、トルカーナ公爵軍は初日で4万、4日目までに13万人の死傷者をだして攻撃は失敗に終わる。
 これに対してソフィア王国第1軍はビアンカ方面の王国軍9個師団と同時に反撃を開始した。ビアンカ戦線では失敗した攻勢もアルピナ方面では成功し、初日で占領されたソフィア王国領を奪還。翌日にはトルカーナ荘園に逆侵攻を開始した。

ゴリトゥーナ会戦
 ソフィア王国第1軍は各地で殺戮を繰り広げながら帝国軍を追撃した。トルカーナ公爵軍は避難民を連れて絶望的だが英雄的な撤退戦を展開した。ビアンカ戦線のアルプレヒト大公はトルカーナ公爵軍はソフィア王国軍を阻止できず、危険な状態にあると知ると娘のシグルーン公女が指揮する第15軍を派遣。第15軍は東進するソフィア第1軍とゴリトゥーナで会戦し、1ヵ月に渡り進軍していたソフィア王国軍の攻勢を漸く阻止した。ソフィア王国軍はゴリトゥーナ会戦後西へ後退し、マッセナ川西岸で陣地を構築して防御に当たった。帝国軍はようやく一息つくことが出来、トルカーナ公爵軍は態勢を立て直す時間を得た。ソフィア王国軍は開戦からゴリトゥーナ会戦までに6万人の死傷者を生じ、帝国軍は18万人の死傷者と民間人32万人の死傷者を生じていた。

マッセナ攻勢
 トルカーナ公爵は緒戦の悪戦苦闘と敗戦に憤激しており、開戦時に参戦を主張していた将校参謀達を面罵していた。アルプレヒト大公からソフィア王国軍の脅威を取り除くために早急な攻撃を行う様に圧力をかけられていたトルカーナ公爵は、7601年が終わるまでにトルカーナ荘園を奪還できなければ、参戦派の将校を縛り首にすると脅して将軍たちに反撃を急き立てた。7601年11月、ビアンア戦線ではレオネッサ王国軍による攻勢が行われる中、トルカーナ公爵軍は再編成の最中ではあったがマッセナ川西岸のソフィア王国軍を撃破するためにマッセナ攻勢を開始した。この攻勢はトルカーナ公国軍のあらゆる能力と手段の不足のために戦術的には失敗に終わった。マッセナ川は水上から両岸に至るまで帝国軍兵士の死屍累々の死体で埋め尽くされた。一方ソフィア王国軍の損害も少なくなく、ソフィア王国軍陣地を第2線まで失い、マッセナ川陣地を放棄してボーノに後退した。トルカーナ公爵軍は11月いっぱいの戦いで23万人の死傷者をだしてどうにかマッセナ川陣地を奪還した事で面目を果たしたものの、ソフィア王国軍を追撃するには至らなかった。ソフィア王国軍は7万人の死傷者をだした。

ボーノ攻勢
 7602年1月にはジャーガルク・シャー国の義勇軍1個軍団がソフィアに到着し、カスパール将軍の第1軍の指揮下に置かれ、トルカーナ戦線に配置された。ジャーガルク人の一部の兵士たちはトルカーナで奴隷狩りを行たが、ソフィア王国第1軍は組織的にトルカーナ人を虐殺していたので、奴隷狩りの被害にあったトルカーナ人は虐殺の被害を免れることが出来た。
 一方帝国軍はトルカーナ公爵が損耗した兵員を補うべく、根こそぎ徴兵を実施し、訓練を施した。ビアンカ戦線のアルプレヒト大公は頻繁にトルカーナ方面のソフィア王国軍を排除するように圧力をかけてきていたが、既に昨年だけで41万人の死傷者を出していたトルカーナ公国軍に単独で攻勢をかけるだけの余裕がなかった。そこで帝国軍の次回攻勢の際には第15軍がトルカーナ公爵軍の側面を援護する事になった。
 7602年6月、アルプレヒト大公のビアンカ攻勢(第6次ビアンカ会戦)に呼応してトルカーナ公爵軍は大攻勢を実施した(ボーノ攻勢)。この大攻勢はシグルーン公女の第15軍が側面援護に当たっており、この第15軍の猛攻にはジャーガルク・シャー義勇軍団が晒された。帝国軍最精鋭を誇る第15軍にジャーガルク義勇軍団は文字通り兵員一人一人が死ぬまで戦い。結果として数に勝る第15軍の突破を阻止した。一方のトルカーナ公爵軍は督戦隊を置いて味方にも容赦なく銃口を向け、新兵たちを死ぬまで戦わせた。7月いっぱい迄トルカーナ公爵軍は死に物狂いの攻勢を続け、ソフィア第1軍をアルピナ要塞に押し戻した。帝国軍はこのボーノ攻勢で58万人の死傷者を出し、ソフィア王国軍は19万人の死傷者を出した。奮戦したジャーガルク・シャー義勇軍団は4万名の兵員の内3万2千名が死傷し、事実上の戦闘能力を消失した。ジャーガルク義勇軍団の残存部隊は撤退を決めた。しかし、ソフィア王国政府の説得により、ジャーガルク軍の海上部隊は継続して連合国側で活動することを了承した。

第2次アルピナ会戦
 ソフィア王国軍もトルカーナ公爵軍も共に損害が著しく、両軍は危険な状態であった為、双方ともに戦力を回復するべく行動した。破滅的な状態にあったトルカーナ公爵軍に代わってシグルーン公女の第15軍が当面の間戦線を防衛し、トルカーナ公爵軍は再編成を行った。又7603年1月にはヴォルゴグラード荘園から40万人のヴォルゴグラード公爵軍が南部ソフィア戦線に投入された。ヴォルゴグラード公爵軍は、ビアンカ戦線でシュヴァルツェンヴェルク公爵軍での攻勢に呼応して、アルピナ要塞に対する攻勢を仕掛ける事を決めた。「戦乙女」(このころにはそう呼ばれていた)シグルーン公女とトルカーナ公爵は要塞地帯への攻撃は危険だと諫めたが、ヴォルゴグラード公爵は攻撃を断行する事を決めた。
 7603年2月24日、シュヴァルツェンヴェルク公爵軍が北部で攻勢を開始するのと同時にヴォルゴグラード公爵軍も大攻勢を開始した。リンディスヴァートから貸与されたグスタフ・ドーラと共に1500門の大砲で帝国軍はアルピナ要塞に砲撃戦を挑んだ。ソフィア王国軍砲兵も激烈な反撃砲撃を帝国軍に加える。激烈な砲撃戦と共に帝国軍は要塞群に突撃、戦友の屍を踏み越えて堡塁に肉迫し、堡塁一つ一つを白兵戦でつぶしていく。ソフィア王国軍は白兵戦で反撃、逆襲。
 戦闘は1ヵ月半続けられた。ヴォルゴグラード公爵軍はあらゆる兵力をつぎ込み、アルピナ要塞群の凡そ40%を制圧、破壊した。シュヴァルツェンベルク公爵軍はビアンカ戦線で破滅的打撃を受けて攻撃を中断した。しかしヴォルゴグラード公爵軍はあきらめなかった。更なる予備兵力を投入すれば必ずアルピナ要塞を突破し、ソフィア王国第1軍を撃破できる。ソフィア第1軍の兵士達には女性兵士も目立ってきている「敵の兵力は枯渇しかかっている!」ヴォルゴグラード公爵は更なる一撃を号令した。本国からありったけの予備兵力を掻き集めて投入。ライラント荘園にも援軍を要請!
 2ヶ月半の攻勢ヴォルゴグラード公爵軍はアルピナ要塞の80%を制圧、破壊したものの、ソフィア王国第1軍を援護するべく、ソフィア王国海軍の戦艦部隊がモンツァ堤防を艦砲射撃、爆弾艦に改造された駆逐艦カーラが自爆、堤防を破壊してモンツァを洪水で襲ったために、補給線を断絶させたヴォルゴグラード公爵軍は攻撃を中断せざるを得なかった。ヴォルゴグラード公爵軍の損害は当初の200%に達した。60万人が死傷し、公爵軍は第15軍の守る帝国軍陣地に帰還した。ソフィア王国第1軍は24万人の死傷者をだして壊滅状態に陥った。しかし、帝国軍は更なる追撃を行わなかった。第15軍のシグルーン公女は南部戦線を固守するように父アルプレヒト大公に要請されていたし、トルカーナ公爵軍は破滅し、再編成中だった。ライラント荘園からライラント公爵軍が来援した時、アルピナ要塞には無数の帝国軍将兵の屍や残骸らしきものが横たわり、大地が血でどす黒く覆われていた。
「ソフィア第1軍は後一撃で終わりだ」
ヴォルゴグラード公爵はライラント公爵に強く攻撃を要請した。ライラント公爵は「準備が整うまではむやみに攻撃できない」と拒否した。ソフィア王国第1軍は破滅を免れることが出来た。

第3次アルピナ会戦
 度重なるビアンカ会戦、そしてアルピナ会戦によりソフィア王国軍はもはや限界にきている事は明白だった。アルプレヒト大公は更なる一撃を加えてソフィア王国軍を破滅させることを意図し、ライラント公爵軍、ヴォルゴグラード荘園軍と共に攻勢を仕掛ける事を決めた。トルカーナ公爵はこの攻勢を中止するべきだと、リンディスヴァートのマクシミリアン大公と共に計画に反対した。しかし反対虚しく、アルプレヒト大公は攻撃を断行する。トルカーナ公爵は、陣地を防御すると攻勢参加を拒否した。
 かくして、第13次ビアンカ会戦と共に、第3次アルピナ会戦が始められた。しかし、名将ライラント公、猛将ヴォルゴグラード公の猛攻にも関わらず、ソフィア王国軍を撃破出来なかった。この攻勢でもソフィア王国第1軍は壊滅的な損害を被ったが、帝国軍は勝利を得ることに失敗し、第15軍とトルカーナ公爵軍の守る陣地に撤退した。そしてヴォルゴグラード公爵は、軍を再編成するためにヴォルゴグラード荘園に撤退する。

第4次アルピナ会戦
 7605年、ヤード帝国軍は戦力を大きく損耗し、危険な状態に陥っていた。それはアルピナ方面でも同様で、現在アルピナ方面の戦線を支えているのはシグルーン公女の第15軍、ライラント公爵軍、トルカーナ公爵軍の残余だった。ソフィア王国軍司令部はとうとう攻勢を意図した。主攻撃目標はビアンカ方面のマクシミリアン大公軍。ソフィア第2軍とレオネッサ王国軍の大攻勢に呼応して、ソフィア第1軍はアルピナ方面でも攻勢を仕掛け、帝国軍を撃破する計画だ。
 ソフィア王国軍はあらゆる兵士を掻き集めた。第1軍は兵力の60%が女性兵士になっていた程だった。そして大攻勢を開始した。ビアンカ戦線ではアルプレヒト大公軍が融解、マクシミリアン大公軍が見事な撤退戦を繰り広げた。アルピナ戦線では、ソフィア第1軍の国境突破を阻止すべく、各軍が猛烈に抵抗した。しかし、この戦域では第15軍、ライラント公爵軍、トルカーナ公爵軍を纏める上級指揮官が居なかったために、帝国軍は苦戦した。しかし、帝国軍は猛然と奮戦した。トルカーナ公爵軍は祖国を蹂躙されるのを防ぐために一歩も引かずに戦った。トルカーナ公爵は自らもライフルを手に戦い、最後の1発まで撃ち尽くし、壮絶な白兵戦により26人ものソフィア兵を斃して戦死した。トルカーナ公爵軍が融解し、消滅した時、シグルーン公女の第15軍は戦乙女の見事な指揮ぶりによってトルカーナ公爵軍の穴を埋めた。ライラント公爵軍将兵は最期まで規律を維持した。ライラント公爵は戦域全体の指揮をとり、見事な采配でソフィア王国軍の突破を阻止した。
 7605年4月2日、連合国と中央同盟国の間で休戦が締結され、戦争が終わったときアルピナ戦線はライラント公爵軍により維持されていた。


ヴェラリア攻勢

大戦序盤でこそ快進撃を続けていたヤード軍であったがビアンカ会戦で攻勢を阻止されその後の攻勢に二の足を踏んでいた。一方で7604年1月以降戦線北部ではリンディスヴァート王国軍による攻勢計画が進行しておりその準備が進められていた。リンディスヴァート王国軍南部軍団では5月に予定されている春季攻勢の下準備として連合国軍の北方守備隊の壊滅を狙った。

その計画は歩兵突撃によりソフィア北部の重要拠点である255高地奪取とそれに伴う高地よりの砲撃により低地に駐留するレオネッサ軍第5師団本隊を壊滅させるというものであった。

255高地は何十にも張られた長大な防衛線と2万人の兵があり、これを突破するには多大な犠牲を覚悟しなければならなかった。また、連合軍は中央同盟国側の春季攻勢の情報を事前に掴んでおり、これが始まる前の4月に255高地を拠点に戦線北部から反撃を行うという計画を立てており、これは中央同盟国側もある程度は予想していた。つまり攻略のタイムリミットは2月から3月下旬までと2ヶ月しかなかったのである。この無謀な作戦立案には軍団南部でも反対意見が多数をしめたが、放っておいたところで連合国軍の反撃は迫っているという司令官の意見により採用された。

ついで実際に高地奪取の作戦に参加する部隊の選定が行われたが、どの部隊も無謀な作戦への参加には否定的で、本国の世論も高い戦死率に次第に厭戦気分が漂いつつあったため、南西タヴェリア植民地兵団(Nacktkorps師団、裸師団)をこの任務につかせることを決めた。

南西タヴェリア植民地兵団は大戦開始前にリンディスヴァート本国で訓練を受けていたもののこれまで後方警備にのみ従事していたため、その戦闘能力は未知数であった。しかしながら、本国での訓練では高い練度を見せていたことからそれなりの戦闘能力は期待されていたし、もし作戦が失敗しても植民地兵の戦死は大した損害にはならないという思惑もあって作戦の主力部隊として選定された。

Nacktkorpsの司令官であったモフモフ族族長のリカオンは

タヴェリア戦線

東タヴェリア戦線(レオネッサ王国領東タヴェリア植民地戦線)

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北タヴェリア戦線(ザルバチ戦線)

リンディスヴァード王国西タヴェリア領への脅威を排除したザルバチ海岸共和国(以下ザルバチ)はソフィア王国軍の支援、戦後のヤード帝国領の一部の併合を条件に本大戦への参戦を革命評議会集中会合で決定した。他にもザルバチは大戦後のリンディスヴァード王国西タヴェリア領(現在のハダカンボ王国)への併合を暗に提示し、連合国はこれを黙秘したといわれる。後に国連総会にてザルバチとソフィア間でハダカンボに関する統治権をめぐり問題となった。国連が仲介するもザルバチは一方的に進軍を決定これがのちの第三次ハダカンボ・ザルバチ戦争へとつながった。

6つ師団(騎兵、歩兵師団)8,5万千人によって構成された共和国第一騎兵戦線軍は第7騎兵師団を先鋒にヤード帝国領へなだれ込んだ、すぐさま共和国防衛隊、予備警察大隊が残されたヤード帝国軍の兵士を狩りを開始した。後方へと深く突き刺さった共和国第一騎兵戦線軍は進撃をやめ目標に到着するとすぐさま防御陣地を構築し以後戦線軍は戦争終結までその場を死守し続けた。
一方共和国防衛隊や予備警察大隊は白人種の保護を名目に村を焼き払い都市では亜人種追放を行った。勿論亜人種の反発や抵抗運動は予測されていた、すぐさま警察予備大隊や共和国防衛隊は5つの大きな地域軍へと分割され密告の推奨、反対者に対する処刑、有力者の土地没収、反帝国教育の実施を行った。
一方で第一戦線から第三戦線までの永久要塞構築も同時に行われ、主に捕虜や犯罪者、亜人種を酷使し、軍では処理できるレベルの範囲を超えていると見た共和国政府はザルバチの軽犯罪者を減刑代わりに監視役として勤めさせた。この永久要塞構築には20万人もの死者を出したといわれ現在もザルバチの汚点として人々にささやかれている。

シンガ情勢


原帝国情勢

 大戦勃発前の5月12に旧共和国大統領であった射剣元帥が白色クーデターにより民主派・共和派の議員を虐殺、6月1日に自らを皇帝とし、新国号を原とした。その後諸外国に新国家承認を求めるが、議会制民主主義の国々は反民主的な新政権を認めず、一方で礼王朝時代より、ソフィア王国及びレオネッサ王国をけん制する為、中原の政権との友好関係構築を模索していたリントヴルム朝ヤード帝国は原帝国及び射剣の皇帝即位を承認した。
 その為大戦勃発後、射剣は中央同盟に対し抗連援中義勇軍(5個師団合計約10万人)を結成し派兵、しかし射剣は皇帝即位の約3カ月後である9月19日に病没、跡を継いだ長子の射閔も同年10月8日に戦死、残りの親族も亡命した為、原帝国は崩壊、以後、旧領は軍閥や地方政権が相争う場となった。


ジャーガルク・シャー国情勢

 大戦勃発直後、ジャーガルク議会では「毛唐の戦に関わるべきではない」という意見が優勢であったが、先のジャーガルク=礼戦争においてソフィア王国立憲王政アーカルソン=リペルニアが戦時国債を購入した事、もし中央同盟が勝利し、イクファターナにおけるリントヴルム朝ヤード帝国一極支配が確立された場合、自国にとって国防上不利益であるという理由により、義勇軍として3個師団(約4万人)と海軍軽巡洋艦1隻・駆逐艦2隻・水雷艇2隻の派遣が決定された。
 人員は現役及び予備役からの志願者によって構成されており、特に古くから精強な民として知られる山岳民族チュスタクォ人の兵士が多く志願した。(しかし一方で非戦闘員を襲い、彼らを奴隷として拉致する兵士も多かったと言われている)
 またこの大戦中ジャーガルクの企業は連合国・中央同盟両方に軍需物資を売り、莫大な利益を上げ、同国は工業化が進展した。

聖座の反応

円十字教普遍教会はヤーディシア大戦について、肯定的な見方を示した。聖座は本次戦争は普遍教会による邪悪な正教会や革新教会に対する聖戦だと位置づけた。その声明は従来の普遍教会同様、自分たちと意見の異なる人々に対する憎悪に満ち満ちていた。

「異端である正教を信仰するヤード帝国は異端であり、淫蕩であり、不義、陰謀、暗殺、その他ありとあらゆる邪悪を煮詰めた存在である。帝国の全ての人間と呼ぶには不快な連中は悪魔そのそのものであり、煉獄でその魂を焼かれる前に普遍教徒によって焼かれなければならない。大戦は正当なる十字軍である。ヤードの地で生まれたすべての悪魔は年齢に関わらず焼却されねばならず、慈悲を抱く事、慈悲を施すことは神の道に反する。すべての普遍教徒はソフィア人がそうするように、無慈悲に帝国の全ての人間を焼かねばならない。また教会を毀損し、冒涜する冒神者リンディスヴァートも同様である。老人の姿をしたものから乳飲み子の姿をしたものまで、改革教徒を僭称する連中は全て狂信者、悪魔であるから、信仰心に篤く、誠実で、慈愛のある普遍教徒はこれらを焼かねばならない。」

聖座はレオネッサ王国ソフィア王国を祝福したが、彼らは本心ではこうした国々が戦争により疲弊する事を望んでいた。レオネッサ王国は普遍教徒が多かったが、レオネッサ統一戦争で教皇領を奪っていたし、ソフィア王国にはクラリッサ帝国以来の怨讐を抱いていた。聖座は表面上は連合国を称賛したが、実際にはヤード帝国に対して同様、彼らにも相当な怨讐を抱き、どの国であれ例外なく不幸と苦しみに満ちる事を聖座は望んでいた。

講和

ソフィア休戦協定


スタックバラ講和条約


影響

イクファターナ

イクファターナの列強諸国は全国力を戦争につぎ込んだため経済力が低下し、かつてのような反映は影を潜めた。

リントヴルム朝ヤード帝国(東ヤード帝国)

余力を残しつつの講和に成功したものの、事実上の敗戦国には変わりなく領土の半数以上を損失し、国力を著しく減退させた。深刻な経済危機と内政混乱を迎え、皇帝による内政改革の反発と共に内戦と分裂へつきすすむことになった。

タヴェリア

タヴェリア戦線における勲功第一であるザルバチ海岸共和国は旧ヤード帝国領の北西部を獲得。国境線を大きく北上させ、建国以来の悲願であったヤード帝国からの領土奪取に初めて成功した。
レオネッサはイクファターナにおける領土拡大はできなかったものの、旧ヤード帝国領タヴェリア属州の一部を割譲され、東タヴェリア植民地に編入した。これによりレオネッサは世界最大の植民地を有することになり列強筆頭であったアトリオン・ヤードの国力に肩を並べることになった。
リンディスヴァート王国領南西タヴェリアはリンディスヴァート王国本国が敗戦し、スタックバラ条約で植民地の放棄に合意したことで、デオルムント条約が失効しハダカンボ王国として自動的に独立を果たした。ソフィア王国がヤーディシア共同体総会でハダカンボ地域の委任統治を主張したが、ソフィアによる報復的殺戮を危惧した共同体諸国からの反対により否決された。

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最終更新:2019年09月16日 09:55

*1 ジークリットからの命令は口頭による「やれ」の一言のみだったという

*2 戦前にジークリットによる構想を基に編制された部隊