清河=スルガ戦争

清河=スルガ戦争は、7611年に発生した中原社会民主主義推進同盟と、スルガの間に起こった戦争。

清河=スルガ戦争
時期:7611年4月1日-7611年8月3日
場所:スルガ母聖樹郡、父醍樹郡、永遠原郡
結果:スルガの勝利
交戦勢力
中原社会民主主義推進同盟 スルガ
指揮官
頭光盟 今川クルーマ(藩主)
虎錬(軍事委員会委員長) 蒼識アローン(家老)
頭凡々(総指揮官) 斉藤ダガタール(参謀総長)
戦力
約900,000 約250,000
被害者数
戦死:約40,000 約2,500
戦傷:約97,000 約9,000

背景

7601年の中原共和国の崩壊により、清河地方には無数の軍閥が出現し、それらの内戦が長きに渡って続いた。
比較的豊かな地域であるスルガ藩もそれらの軍閥の一つであったが、彼らはいち早く独立すると、地歩を固め防衛力を増強。他地域の混乱については見捨てることになった。
内戦を加速したのはヤーディシア大戦の終結である。大戦の終了によりイクファターナの各国は軍縮を実施し、不要となった兵器は清河内戦に供給された。
社会主義国家の建設を掲げる中原社会民主主義推進同盟は、頭光盟委員長の指導の下でこれらの武器弾薬をなりふり構わずに調達し、次第に大勢力の一つとしてのし上がっていった。
頭光盟は7611年には中原のほとんどの地域を統一し、未回収の中原たるスルガの攻略に乗り出した。

戦争前夜

中原社会民主主義推進同盟はスルガに工作員を送り込み、内部分裂と農民反乱を計画した。
しかしすぐにスルガは他軍閥とは性質が異なることに気がつくことになった。もともと豊かな地域であったスルガは礼王朝時代、その富を他の貧しい地域に分配するために高い税を負担していた。スルガの独立運動はその貧しい地域を切り捨てるためのものであったのである。
さらにスルガは内乱から離れて十年が経過しており、住民は安定した生活を確保できていた。政治体制についても礼王朝時代より遥かに開放的であり、赤軍は農民たちの支持を広げることに失敗した。
都市部ではまた別の戦いが発生していた。スルガの支配派閥である冷笑派(とそのシンパ)は、社会主義者の演説に対して武力鎮圧を行うのではなく、反対言論を展開。左派によってばらまかれたビラと同じだけの右派ビラが展開された。スルガの人民は自らの置かれた立場を理解しており、社会主義者たちの居場所は狭められていった。

内部工作とは別にスルガ攻略のための準備は着々と進められていた。
政治局委員の孤斐子と軍事員会委員の頭光美は開戦の是非を巡って争ったが、政治闘争に敗れ頭光美は失脚。
頭光盟の次男である頭凡々がスルガ解放軍最高司令官として任命された。

スルガ政府は侵攻が近いことを察知したが、頭光美の失脚から戦争回避のための余地は残されていないことも理解した。

第一次攻勢

中原社会民主主義推進同盟は46個師団90万名の将兵、火砲1,880門、航空機70機にて攻勢を開始した。

手始めにスルガの山間部(母聖樹)に建設された要塞線を突破するため、一週間にわたって広範な範囲に猛烈な砲撃を実施。
まともな反撃が無い事でスルガの士気が低いとみて清河軍は渡河。大規模な攻勢を敢行した。
わずか80kmの戦線に、初日の攻勢だけで38万の人員、1200門の火砲が投入された。
しかし攻撃部隊は5万人の損害を出しながら、無人地帯すら突破できず、攻勢は初日から頓挫した。

さらに翌日からは天候が悪化。鉄とコンクリートで建設された近代的要塞。山間部の入り組んだ狭い道。攻勢作戦の情報流出。事前偵察の困難などの要因が重なり、攻撃の続行はますます困難となった。

シンガ軍は攻撃地点を変更し、さらに攻撃を行った。
この攻撃はわずかな前進をもたらし、前哨地の一つを奪取した。
しかし勝利に沸くシンガ兵を待ち受けていたのは、第二線以降の防衛拠点群と、そこから降り注ぐ精密な砲弾だった。
山の稜線を越えてやってくる間接射撃に対し、シンガ軍は応射することができず、被害は拡大。狙撃を受けながら橋を修復するなどの懸命な進軍が進められたが、損失に耐えられず撤退。東海道は清河兵士の遺体で埋まり、流血行路と呼称された。

事態ここに至り、清河軍はスルガがこれまでの軍閥ではなく、イクファターナの列強にも匹敵する近代軍であることをようやく認めることになった。

経済封鎖

海上ではスルガ側に終始一方的な優勢な戦況で推移していた。
清河海軍は旧式艦が多数を占めており、なにより専門知識を持つ海軍士官は貴族・富裕階層が多かったために処刑されているか、スルガ等の国外に逃亡していた。
数次の戦闘によって清河の南洋艦隊はほぼ壊滅し、直栄港に逃げ込むことになった。スルガ艦隊は直栄港に機雷を敷設して封鎖すると、防備の薄い港湾を艦砲射撃により破壊して回った。
これにより工業力が未だ未発達な清河では弾薬や機械部品の供給に支障をきたす事となった。またこれがトラウマとなり、以後の時代についても清河は工場群を内陸部に建設することを戦略教義とするようになった。

航空優勢は初日からスルガ側にあり、スルガの爆撃機は清河軍の頭上を飛び越え、後方の橋や鉄道を爆撃した。
同時期にチュンハイ戦争が発生しており、スルガはソフィア王国と共戦国として清河に当たることになった。
孤斐子は空中戦艦【定龍】の投入を主張したが、頭光盟は損失を恐れこれを拒否。「無能に預けられる船ではない」と一蹴した。

ジャーガルク・シャー国は、政府としては清河がスルガの工業力を獲得することを恐れ、清河への物資供給や交通を断っていたが、一部の商人は高額で物資の密取引を行い利益を得たとされる。

第二次攻勢

第一次攻勢が完全に頓挫したことで清河軍は一時後退し、物資の補給と再編成を行った。
その間にもシンガ上空ではスルガの爆撃機による空爆が連日続き、再編成は難航した。
また清河軍は優秀な指揮官であった虎錬に第一次攻勢失敗の責任を負わせ更迭。頭凡々の権限を強化して再攻勢を敢行した。

第二次攻勢は13万の死傷者を出すが、ほとんど前進できないまま被害は拡大した。
また空爆によるインフラの破壊は補給や通信事情を大きく悪化させ、取り巻く条件は第一次攻勢よりも悪化していた。
特に食料の輸送は深刻であり、物資の徴発や友軍同士での食料の奪い合いも相次いだ。

「愛国心や政治思想の正しさは、現実に何ら寄与することは無かった。我々が十年間明日を夢想していた頃、スルガは十年間今日を積み重ねてきたのだ」──虎錬

大規模攻撃は取りやめられたが、脆弱部の探索のために多方面に規模を縮小した形で行われた。

最初の異変は、北部の父醍樹戦線で発生した。
清河のある一隊の兵士達が、スルガの機関銃ポストへの突撃を「どう考えても犬死にじゃねえか!」として拒否。
政治部隊はこれを反乱として射殺したが、士気の低下を押さえることはできず、一月後には清河全軍に「突撃はしないぞ!」「無駄死には絶対にお断りだ!」というスローガンが吹き荒れた。

命令拒否案件が三桁を越え、部隊ぐるみの脱走兵が出始めると、頭凡々は統一された軍事行動を継続することは出来ないと判断。戦争の敗北を認めざるを得なかった。

撤退とその後

清河はスルガ領内から撤退したが、スルガ艦隊は南洋海に居座り、清河の船舶を拿捕するなど封鎖を継続した。
チュンハイ戦争によって清河に復帰したチュンハイ租界も艦砲射撃の目標となり、すべての艦船と港湾機能を喪失した。
スルガが逆侵攻を企画すると清河は停戦交渉を求め、戦争は終結した。
スルガは賠償金を得、清河は非武装地帯を設置することになった。

中原社会民主主義推進同盟はこの戦いを「戦略的には正しく勝利できたが、指揮官の無能により失敗」と位置付け、上層部に行くほど責任を取らないという事態となった。ボイコットを行った兵士たちは敗戦の主犯とされ、厳しい懲罰が下った。

スルガはこの戦いを軽く見てはいなかった。勝利は言ってみれば清河の失敗によるもので、頭光盟が存命のうちに必ず再侵攻が行われると確信した。
病床にあった今川クルーマは、後を継ぐ娘のためにアトリオンとの同盟を推進。
3年後にはアトリオン=スルガ防衛同盟が締結される。

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最終更新:2019年04月28日 17:36