チュンハイ戦争

チュンハイ戦争(韓語:春海戦争)は7611年5月8日から7611年6月30日にかけてチュンハイ租界を巡りソフィア王国と中原社会民主主義推進同盟(清河人民社会主義共和国)の間で行われた戦争。清河=スルガ戦争と同時期に行われた為、清河では同一視される事もある。

チュンハイ戦争
画像
時期:7611年5月8日-7611年6月30日
場所
チュンハイ租界
結果:中原社会民主主義推進同盟の勝利
交戦勢力
ソフィア王国
・チュンハイ租界警備隊
・第14師団
・チュンハイ派遣航空隊
・チュンハイ派遣艦隊(巡洋艦2、駆逐艦8)
中原社会民主主義推進同盟
・直栄軍(10個師
・春海解放人民義勇軍(12万)
指揮官
ルイ国王
ジョルジュ・カイペル(チュンハイ租界警備隊隊長)
ラ・ストーレ(第14師団長)
レオポルド・ラヴェンテュリエ(派遣艦隊司令官)
頭光盟
虎錬(軍事委員会委員長)
王真竪(直栄軍司令官)
陶普珪(春海解放義勇軍)
戦力
陸兵約20.000
戦車40
航空機60
巡洋艦2
駆逐艦8
毒ガス20.000t
約350.000
被害者数
戦死:521
戦傷:613
戦死:約28.000
戦傷:約47.000
民間人死傷:約130.000

背景

 中原共和国が崩壊して以降、清河は軍閥の群雄割拠が続いていた。しかし直栄ではソフィア王国が春海(チュンハイ)に租界を保持しており、清河の混乱と政情不安に乗じて租界における清河人への搾取体制を強めていた。
 チュンハイ租界はソフィア人にとっては天国だったが、清河人にとっては地獄そのものであった。特にピエール・デュカスが租界の行政局長に就任してからはその悲惨さが一段と増した。デュカス行政局長は清河に150%の特別販売税を課した。これはソフィア人と清河人が売買契約を取り決めた際には、清河人が販売価格の150%を租界に支払わなければならないという税で、例えば100銭の商品をソフィア人が清河人から購入したら、清河人は150銭をソフィア租界に納めなくてはならなかった。当然このような税を課されて租界の経済が円滑に進む訳がなく、清河商人はソフィアとの取引を停止したが、そうするとソフィア租界は駐留警備隊を動員して殺人や略奪を働いて清河人に売買契約を強要した。また特別雇用税(清河人の給与の130%をソフィア租界に納める説)なども施行されたためソフィア人による清河人の拉致と強制労働が横行した。
 清河人はチュンハイの軍閥に支援を求め、しばしば小競り合いとなったが、素質の低いチュンハイ軍閥ではソフィア王国軍の相手にならなかった。おまけに駐留警備隊やソフィア人は暇つぶしに清河人をリンチしたりレイプしたため、清河人とソフィア人の関係は最悪そのものであった。こうした暴虐非道に対して清河は軍閥の群雄割拠の為に効果的な対策を打てなかったが、立憲王政アーカルソン=リペルニアの介入によってチュンハイ租界のピエール・デュカスは行政局長から解任され、特別販売税と特別雇用税は廃止される事となった。しかし、チュンハイの清河人は悪鬼の様にソフィア人を憎悪し、呪った。こうした怨讐と地方軍閥の無力はチュンハイの清河人に自力でのソフィア排斥を決意させ、彼らを団結させた。こうして反ソフィア結社が結成され、それらも最終的には陶普珪率いる春海解放義勇軍に統合された。春海解放義勇軍は中原社会民主主義推進同盟の一部門であり、同盟の指揮下に置かれていた。春海解放義勇軍は大挙して直栄軍閥に押し寄せ、王真竪に中原社会民主主義推進同盟の指揮下に入る事を約束させた。
 地方軍閥の平定を済ませた陶普珪は、頭光明に春海解放義勇軍によるチュンハイ解放を要請。頭光明はこれを支持した。


経過

春海解放義勇軍の蜂起とチュンハイ租界への攻勢

 7611年5月8日、中原社会民主主義推進同盟はチュンハイの解放を要求し、ソフィア王国に宣戦布告した。宣戦布告と同時に春海解放義勇軍が、ソフィア王国のチュンハイ租界を襲撃した。ソフィア王国の租界駐留軍5000人はバリケードを設置し、塹壕を構築して陣地内に市民を避難させて防御した。ソフィア王国軍の精密なライフル射撃、機関銃による斉射、そしてFT7605戦車10輌に対し、解放義勇軍は満足な武器が無かった。戦闘員の凡そ4割に小銃が無く、青龍偃月刀や清河刀で戦った。彼らはザルバチ出身の音楽家が作曲した軍歌「聖戦」の清河語訳を怒鳴りながら突撃を繰り返したが、膨大な損害を出して敗退した。
 解放義勇軍陶普珪司令官と解放義勇軍人民評議会は、頭光明に援軍を求めた。頭光明はスルガ攻撃に投入する予定であった王真竪の10個師20万(直栄軍)をチュンハイ租界へ派遣した。
解放義勇軍が来援を待つまでの間、ソフィア王国軍は敵兵の首を切り落として見せしめにバリケードとした。これは威圧の目的で行われたが、死体を損壊する行為に解放義勇軍の士気はさらに上がった。

ソフィア第14師団のチュンハイ派遣

 チュンハイ襲撃に対するソフィア王国軍の反応は素早かった。ソフィア王国軍はチュンハイ租界を防衛するため、第14師団、特別編成航空隊をチュンハイに派遣する事とした。この輸送船団を護衛するために、レオポルド・ラヴェンテュリエ提督指揮官の巡洋艦クレインハウゼン、ヴォールグリュック(リンディスヴァートの賠償艦)及び駆逐艦8からなる派遣艦隊を護衛に着けた。
 一方で清河軍は清河=スルガ戦争の緒戦の海戦で艦隊を損耗しており、制海権をスルガ艦隊に奪われていたためソフィア艦隊を阻止するための方策を講じることが出来なかった。この時ソフィア艦隊はスルガ艦隊の駆逐艦ムラクモ及びミネグモより誰何されている。この時ソフィア艦隊は「我ソフィア海軍、これよりチュンハイに陸兵を輸送し、敵を絶滅せん処也」と回答し、スルガ艦より「健闘を祈る」の返答を受けている。

チュンハイ上陸戦

5月24日、ソフィア王国軍艦隊の艦砲射撃の後に、王国軍第14師団は上陸を開始した。またソフィア王国空軍がスルガの国境飛行場を貸借して展開した。春海解放義勇軍は沿岸部に防衛施設も設営しておらず、大した防衛部隊も展開していなかったために上陸作戦は極めて容易に進展した。上陸した第14師団は艦砲射撃及び砲兵隊の射撃支援を受けながら、戦車を正面に「皆殺し」作戦を取りながら慎重に前進し、翌日にはチュンハイ租界警備隊と連絡。チュンハイ租界警備隊とチュンハイ租界のソフィア人は2週間ぶりに補給を受けることが出来た。第14師団が上陸するのと入れ替わりに租界のソフィア市民は輸送船によってチュンハイを離れ、ソフィアに避難した。
 第14師団はチュンハイ租界警備隊を指揮下に組み入れると、毒ガス及び戦車部隊、航空部隊を効果的に運用し、チュンハイ租界の解放義勇軍を撃破していった。解放義勇軍は異様に士気が高く奮戦したが、武器も練度も劣る民兵集団に過ぎず、陶普珪はチュンハイから一度後退して直栄軍と合流して第14師団と決戦する事とした。一方、チュンハイから解放義勇軍を掃蕩した第14師団は航空偵察の結果から清河軍が閏家に集結している事を確認すると、チュンハイ租界警備隊をチュンハイに残置して閏家に向けて進撃した。

果俊事件

 5月28日、閏家に向け進軍中のソフィア王国軍第14師団は進軍途上の果俊で略奪を働き、住人1056人すべてを殺害した。発端は女性を買い求めていたムスルマーネン・カリフ国の奴隷商人がソフィア軍兵士に渡す賄賂が少なかったためとされている。

須馬村事件

 6月1日、閏家に向け進軍中のソフィア王国軍第14師団は進軍途上の須馬村で略奪を働き、住人348人すべてを殺害した。

閏家会戦

 6月8日、ソフィア王国第14師団と清河軍の直栄軍10個師及び春海解放義勇軍は激突する。清河軍は砲兵火力が少なく、ソフィア王国軍の航空爆撃に大いに苦しめられた。しかも清河軍はスルガ空軍機の襲撃も受けて大いに苦戦する。この時スルガ軍のパイロットたちはソフィア王国軍が何処に展開しているか連絡を受けており、しかもソフィア王国軍は段列に標識を掲げた為殆ど誤爆を受けなかった。一方でソフィア王国軍も閏家に集結していた敵が10個師以上の大軍であるとまでは把握しておらず、兵力20倍以上の敵を1個師団で撃破できると考えていなかった。しかも、憤怒に燃えた解放義勇軍は昼夜を分かたず突撃を繰り返したため、5日もすると兵士たちの疲労し、弾薬も不足してきた。この間も清河軍に対する航空偵察と航空爆撃は繰り返されたが、直栄軍が解放義勇軍が猛攻を仕掛けている隙をついて迂回包囲する姿勢を示したため、毒ガスを展張しつつ後退を開始した。清河軍は毒ガスによって大きな損害と混乱が生じた為追撃を断念し、閏家会戦におけるソフィア王国軍の離脱を許した。

航空機の戦い

 ソフィア王国空軍はチュンハイ戦争に60機の航空機を送り込んだ。それらはアトリオン製の最新型戦闘機フェアリーや新型爆撃機ピクシーだった。スルガの飛行場を貸借したソフィア王国空軍はそこから出撃してチュンハイ及び春南地域上空で活動した。訓練が十分されており性能も優秀なソフィア空軍に対して、装備も練度も低い清河空軍は空中戦で全く丸太打ちできず、また多数の飛行機を地上撃破された。凡そ1ヶ月半の空中戦では清河空軍機はほぼ一方的に撃破される事になった。

毒ガスの散布

 ソフィア王国軍は当初毒ガスを使用する予定が無かった。だが軍には廃棄予定の毒ガス20.000tが現存しており、「この際だからすべて使用してしまおう」としてチュンハイ租界に20.000tを送り込んだ。ソフィア王国軍は天候と風向きが良い時には積極的に毒ガスを散布し、本次戦争中に20.000tすべてを使い切った。この散布は化学兵器の防護装備もなく訓練もされていない清河軍を大混乱に陥れ、住民も巻き込んで膨大な死傷者を生じさせ、春海を化学汚染させた。

講和とソフィア王国軍の撤退

 ソフィア王国は清河軍の壮絶な抵抗と清河人の反ソフィア感情の為に、チュンハイ租界を維持する事に魅力を感じなくなっていた。一方の清河側も清河=スルガ戦争に戦力を集中したい思惑から講和の動きが模索され、中立国リンディスヴァート制憲諸邦同盟を仲介して講和が結ばれた。講和内容としては清河が賠償金を支払い、ソフィア王国がチュンハイ租界を清河に引き渡すというもので、当初清河側は賠償金の支払いを強硬に反対したものの、ソフィア王国が清河=スルガ戦争への軍事介入、スルガへの支援と大軍の投入、更なる大虐殺をほのめかすと清河側も折れ、6月30日には終戦した。ソフィア王国軍は7月末にチュンハイをシンガに引き渡した。

チュンハイ虐殺

 ソフィア王国軍はこの戦争において521人の死者と613人の負傷者を出した。ソフィア王国軍はチュンハイ撤退前にシンガ人5210人を殺害、6130人の手足を切断した。シンガはこの残虐行為に激しく激怒し、あわや戦闘再開となったが、清河=スルガ戦争に戦力を投入したい同盟首脳部はソフィア王国軍に対する攻撃を厳禁して戦闘は回避された。

戦争時の文化と影響

神圣的战争

チュンハイにおけるシンガ人はソフィア王国の暴虐に対する憎悪と憤怒で煮えたぎっており、圧倒的に優位な敵にたいして常に高い士気を維持し続けた。特にザルバチ出身の音楽家による軍歌「聖戦」は神圣的战争として清河語に翻訳され、愛唱された。「聖戦」歌詞中の極悪非道の敵は清河人にとってソフィア王国軍そのものであり、彼らの士気を向上させることに役立っただけでなく、多くのシンガ人が歌う事の出来る初めての海外音楽となった。
https://www.youtube.com/watch?v=8KDDAe94oAA

反ソフィア感情

チュンハイ租界の虐政と、チュンハイ戦争における度重なるソフィア王国軍の残虐行為はシンガ人に「子々孫々の骨髄にまで怨讐を染み渡らせた」と言われるほど反ソフィア感情をシンガ人に植え付けた。

戦後のスルガ軍の艦砲射撃と破壊

ソフィア王国軍がチュンハイを撤退すると、清河=スルガ戦争を戦うスルガ海軍の艦隊は積極的にチュンハイを艦砲射撃し、航空爆撃を実施しため、チュンハイの港湾機能は完全に失われた。

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最終更新:2019年04月28日 17:41