ソフィアの聖女

ソフィアの聖女(6547年? - 6572年頃)はソフィアに実在したとされる女性。歴史上最も謎の多い人物であり、近年まで伝承上の人物と思われていた。

生涯

伝承によれば70世紀半ば、大量の彗星が降り注いだ年にソフィアの農村で生まれたとされ、これが正確であれば、66世紀頃の彗星群到来は6547年であることからその年に生まれたと推測できる。
彼女が14歳の頃、リントヴルムに行商でおもむき、そこでリントヴルム大図書館での大量の書籍に出会う。図書館は利用無料であったためかねてより学問に興味があった彼女はそこで地質学、生物学、医学、人類学、考古学を学び、さらに当時先進国であったヤードの技術などを習得した。
この学識の高さに目をつけたヤードの貴族ヒポポクロスは彼女に当時最高学府であったリントヴルム大学で若干19歳にして教員として推挙しそこで2年ほどつとめる。
彼女は学術が進んだヤードに住みながら祖国ソフィアが以下に遅れているかを実感し、祖国ソフィアの発展に力を尽くそうと帰国。
帰国した彼女は分類学、進化論、遺伝の法則などを「発見」し、それを論文として発表し、さらには品種改良の技術を伝え、医者としても活動した。
帰国当初こそその学識と高名さ故に歓迎された彼女だったが、教会の権威を否定するようなそれらの発表は次第に権力者たちからは疎まれるようになった。
そして彼女は25歳の時、幾度にも渡る異端審問で論文を撤回しなかったため激しい拷問の末、魔女として死刑判決を受け火刑に処された。
彼女の死によってヤーディアの産業革命は500年は遅れたと言われるほどであった。
彼女の弟子たちはその後逃散したが、その技術は密かに伝えられ、それが後の産業革命の基礎となったと言われている。
そして、追加刑罰として記録抹消刑に処され、彼女の記録は西方教会では完全に抹消され、東方教会でも次第に忘れられていった。

以上が伝承であり実在そのものが疑わしいとされていたが、7600年になって、その実在の記録の一部が発見され実在が証明された。
しかしそれらの記録でも彼女は単に「先生」「博士」などとしか呼ばれておらず、本名は未だに不明である。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2019年05月05日 21:42